[#表紙(表紙.jpg)] 宇江佐真理 髪結い伊三次捕物余話 君を乗せる舟 目 次  妖 刀  小 春 日 和  八丁堀純情派  おんころころ……  その道 行き止まり  君を乗せる舟  文庫のためのあとがき [#改ページ]   妖 刀      一  池之端《いけのはた》・茅《かや》町で主に刀剣を扱う道具屋「一風堂《いつぷうどう》・越前屋」の主《あるじ》は北町奉行所の隠密廻《おんみつまわ》り同心、緑川平八郎《みどりかわへいはちろう》の古くからの知り合いである。  皮肉屋で酷薄な印象がする緑川に比べ、越前屋|醒《さむる》は、見た目は穏やかで如才《じよさい》ない口を利《き》く四十二歳の男だ。何んでも緑川が一風堂で刀剣を誂《あつら》えるようになってからの縁だという。今では商売抜きで親しくつき合っているようだ。  越前屋の話はおもしろく、伊三次も聞いていて興味を惹《ひ》かれることは多いが、困ったことに越前屋は怪談じみた話がやけに好きだ。おどろおどろしい内容の話を、店で客の相手をするような口調で語るから始末が悪い。知らぬ間に膚《はだ》が粟立《あわだ》ってくる。  また本人も何かしらの霊感があるようで、人には見えないものが見えるらしい。しかし、越前屋には、人を怖がらせようという気持ちはなく、こんな話があるんですよ、と座興のつもりで話しているのだ。気色が悪いので伊三次は忘れるようにしているのだが、後で決まって思い出す。怪談の類《たぐい》はどうして一人になった時、ふっと思い出すのだろうか。  ついこの間も妙なことがあった。  本所で仕事を終えた伊三次は帰る途中で緑川とばったり出くわした。ちょうど昼の時分で、緑川はこれから浅草で越前屋と鰻《うなぎ》を食べる約束をしているという。お前も一緒にどうかと誘われた。  午後から急ぎの仕事がなかったのを幸いに伊三次は喜んで後をついて行った。  夏の疲れが出ているのか、この頃の伊三次は身体が妙にかったるい。ここは鰻を食べて滋養をつけるかという気持ちにもなった。  茅町の一風堂は不忍池《しのばずのいけ》に面した通りにある店だ。蓮《はす》がびっしりと生えている不忍池の中央に樹木で囲まれた弁才天の社《やしろ》が見える。長月《ながつき》の曇り空の下では不忍池の水も寒々と感じられた。越前屋は、妻女の他に年寄りの番頭を一人置いているだけである。妻女のお梅《うめ》との間に子はなく、店を続けるとすれば養子を取らなければならない。だが、お梅の気が進まないということで、それは棚上げされた恰好《かつこう》になっていた。  お梅は痩せて癇性《かんしよう》な感じの女だ。伊三次はお梅を見ると、いつも狐を連想してしまう。  緑川と伊三次が一風堂の暖簾《のれん》をくぐった時、越前屋は客の相手をしていた。客は中年の武士だった。一風堂の客は商売柄、武士が多い。近所の武家屋敷ばかりでなく、わざわざ遠くから訪れる者も少なくないという。  越前屋は緑川にさり気なく目礼すると、店座敷の隅にある床几《しようぎ》に目顔で促《うなが》した。  正面には墨痕《ぼつこん》鮮やかな掛け軸が下げられ、その上に槍が飾られている。刀架けには結構な数の刀がうやうやしく置かれていた。だが、思いの外《ほか》、店は簡素で清潔なたたずまいである。 「それではお預かり致します。少々、お時間を拝借することになりますが、それはご勘弁のほどを。何しろ手前どもが懇意にしている刀|鍛冶《かじ》は滅法気難しい男でありますので、その気になるまでが骨でございます。まあ、遅くとも年内には手前どもの店に届けられるかと思います。あまり遅いようでしたら、もちろん、それとなく催促は致しますが」  どうやら客は刀の手直しに来たようだ。一風堂は品物の販売もするが手直しも引き受ける。いや、手直しの実入りの方がはるかに多いように思われた。 「よろしくお願い致しまする。何しろ先祖伝来の大事な刀でありますれば」  中年の武士は心配そうに念を押す。 「よっく心得ております」  客に応えた越前屋は真顔になっていた。その眼は商売人ではなく武士のものだと伊三次は思う。それもそのはず、越前屋の父親は武家の出であった。  父親は仕《つか》えていた藩が改易《かいえき》となり、陋巷《ろうこう》に身をやつしていた時に一風堂を営んでいた母親の祖父に当たる男と出会い、見込まれて婿《むこ》入りしたのだ。だから父親は息子の養育をほとんど武家の息子と同様に行なった。剣法の修業も長くしてきたので、越前屋は緑川の話によれば、かなり腕が立つという。そんなことは伊三次にとって先刻承知のことだった。越前屋の協力で伊三次は下手人を挙げたこともあるからだ。  ようやく客が引き上げると、越前屋は黒い前垂《まえだ》れを外し、着物の上に羽織をつけた。 「お待たせ致しました。それでは参りましょうか」  慇懃《いんぎん》に言って履物に足を通した。お梅が内所《ないしよ》(経営者の居室)から茶を運んで来たが、越前屋は「いらぬ」と、にべもなく応えた。  連れて行かれた鰻屋は浅草寺《せんそうじ》前の広小路にある「小川《おがわ》」という店だった。  そこは伊三次が小者《こもの》仲間と気軽に立ち寄るような店ではなく、料理茶屋のような体裁をしていた。客はそれぞれの部屋に案内されて鰻を食べるのだ。  三人は二階の小部屋に促されたが、階段を上る時、内所の様子がちらりと見えた。越前屋の顔色がふっと変わったように見えた。内所では、その店の年寄り夫婦がなかよく並んで座っていただけだったが。 「旦那、何か」  伊三次は越前屋に怪訝《けげん》な眼を向けた。 「いや、何んでもない」  すぐに何事もない顔つきに戻った。  小半刻《こはんとき》(約三十分)ほど待たされてようやく蒲焼が運ばれてきた。小川は客の顔を見てから鰻を捌《さば》いて調理に掛かるということだった。  越前屋はなぜか蒲焼には手をつけず、添えられていた酢の物や漬け物で飯を済ませた。  ぺろりと平らげた伊三次に越前屋は自分の蒲焼を勧めた。 「食が進まねェご様子で」  おずおずと言うと、緑川は訳知り顔で「なあに、例の病《やまい》が出たのよ」と応える。 「例の病……」  一瞬、またかと伊三次はいやな気分になった。 「喰ってから聞いてやるぜ。おう、おれにも少し分けろ」  緑川は意に介するふうもなく伊三次に催促した。 「へい」  伊三次は緑川の塗りの容《い》れ物に蒲焼を分けた。蒲焼は身がふっくらと柔らかく、甘みを控えた|たれ《ヽヽ》の按配《あんばい》が極上だった。伊三次は久しぶりにうまい蒲焼を堪能した。  小女《こおんな》が茶を淹《い》れ替えて持って来ると、越前屋は「内所の爺婆《じじばば》の顔が鰻になっていた」と、ぽつりと洩らした。伊三次はぎょっとなったが緑川は顎《あご》を上げて高笑いした。 「それで後生《ごしよう》が悪くて鰻には手を付《つ》けなかったという訳か」 「まあ、そんなところです」  越前屋は照れたように応えてから話を続ける。 「魚妖《ぎよよう》の話は割合多いものです。この店は鰻だけですが、中には泥鰌《どじよう》や|すっぽん《ヽヽヽヽ》も扱っている所がありましてね、色々あるんですよ」 「と申しますと?」  伊三次は越前屋の話を急《せ》かした。すっぽんは鰻よりもさらに高価なもので、伊三次は、まだ口にしたことはない。すっぽんは喰いつかれたら雷が鳴っても離れないということは聞いている。こちらも鰻と同様に精のつく食べ物として人々に珍重されている。 「ある店は坪庭《つぼにわ》の池ですっぽんを飼っております。客が泥鰌や鰻を注文する分には何んともありませんが、すっぽんと言おうものなら池のすっぽんは、こそこそと隠れてしまうのだと、その店の主が話しておりました。わが身の危険を察するんでしょうかな」 「まるで冗談みてェな話じゃござんせんか」  伊三次は呆れた声になった。 「あるいは……」  と、越前屋は腰高障子《こしだかしようじ》の方に眼を向けながら思い出すように続けた。  向島《むこうじま》に寮《りよう》(別荘)を持っている大店《おおだな》の主人が雨もりがひどいので思い切って寮を建て直すことにした。ついでに寮の庭にある古池も埋《う》めることにした。その古池は庭の半分以上の広さがあり、孫が遊びに来て、うっかりおぼれでもしたら大変だと以前から心配していたのだ。  大工や庭師を呼んで、あれこれ話を進めていたある夜、主人の家に男の来客があった。  外は雨も降った様子がないのに男の衣服は濡れていた。  主人は不審を覚えながらも男を座敷に招《しよう》じ入れた。男は向島の寮の近くに住んでいる者だという。向島からわざわざ主人の家と店のある深川までやって来たのだった。  男は古池で大きな鯉を見掛けたことがあるので、その鯉は古池に棲《す》みついている主《ぬし》であろうと言った。ねんごろに扱って、どこか安住できる場所に移した方がお家のためだろうと親切にも忠告した。主人も何度か池で大きな鯉が泳ぐのを目にしたことがあった。池の主だとすれば、男の言うようにどこか他の場所に移さなくてはならないと思った。主人は快く、おっしゃる通りに致しますと応えた。  話をしている間に夜が更《ふ》けてきた。男は晩飯を済ませた様子でもなかったので、主人は女中に言いつけて麦飯と汁と香の物の食事を出した。向島に寮を持つ大店でも内所の食事は質素なものだった。だが、男は喜んで食事を馳走になった。  食べ終えると男は何度も礼を言って帰って行った。主人はすぐさま向島に行って職人達に鯉のことを伝えるつもりだったが、急な用事ができて、それから三日ほど店を離れられなかった。ようやく用事を片づけて向島に出向くと、早や池の水はすっかり空《から》になっていた。主人は慌《あわ》てて鯉はいなかったかと訊《たず》ねると、職人の一人が「おりやした」と応えた。  職人は特に鯉をどうかしろと言われていなかったので、役得とばかり、その鯉を捕らえて包丁を入れてしまったらしい。主人はひと足遅かったかと大いに悔《く》やんだ。 「まあ、食べてしまったものは仕方がない」  主人は気後れしたような顔の職人に鷹揚《おうよう》に応えた。 「いえ、旦那、あの鯉はとても喰えやせんでした。何しろ、腹を裂いたら中から麦飯がごっそり出てきたもんで、気持ちが悪くなりやした」  途端、主人は奇声を発して意識を失ったという。 「それからその男はどうなりやしたんで」  伊三次は気味悪さを感じながら越前屋に訊ねた。 「まあ、様子がおかしくなって半病人のようになり、店もその内、いけなくなったそうだ」 「………」 「伊三次、まともに取ることはねェ。こいつは越前屋の悪い病だと思いねェ」  緑川は意に介するふうもなく言ったが、伊三次はせっかく馳走になった鰻なのに胸焼けがして、その日は具合が悪かった。早々に家に戻り、早寝をしてしまう始末だった。      二  そんなことがあってから少しして、伊三次は北町奉行所、定廻《じようまわ》り同心の不破友之進《ふわとものしん》から一風堂がらみの捜索を命じられた。  小者としての御用は、いつも朝に不破の組屋敷を訪れて髪をやる時に言われることが多い。  季節の変わり目で、不破の娘は風邪気味らしく、朝からぐずる声が聞こえていた。  空は厚い雲に覆《おお》われ、おまけに風も出ている。雨でも降って来たら傘を差しても風で煽《あお》られてしまいそうだった。 「越前屋の所によ、下男らしいのが刀を持ち込んで、いい値で捌《さば》けないかと言ってきたらしい。越前屋は一応預かることにしたが、これがなあ……」  不破はそこで言い澱《よど》んだ。髷《まげ》に元結《もつとい》を結びつけていた伊三次の手も止まった。 「何かあるんですかい」 「いずれもご大層《たいそう》な代物《しろもの》ばかりでな、一風堂はこのまま商売を進めていいものかと緑川に相談したらしい。緑川はさっそく下男が奉公している屋敷に出向いたが、これが武家屋敷ではなく向島の寮だったというのよ」  向島の寮と聞いて、伊三次は麦飯を腹に抱えた鯉のことを思い出していた。ざわりと膚が粟立った。 「しかも主は六十がらみの女隠居《おんないんきよ》で、奉公人の他に家族はいないということだった」 「何者なんですか、そのお人は」  伊三次は元結の余分を切り落とし、髷の刷毛先《はけさき》を僅《わず》かに拡《ひろ》げた。八丁堀|銀杏《いちよう》髷のでき上がりである。 「数年前までお屋敷奉公していたらしい」  不破は伊三次が差し出した手鏡をちらりと覗《のぞ》いてから続けた。 「どこのお屋敷ですか」 「さて、はっきりしたことはまだわからんが、何んでも一風堂のことは前々からよく知っていたふうがあったそうだ。持ち込まれた刀のご大層なことから考えると女隠居が奉公していたのは加賀様ではなかろうかと緑川は察しをつけておる」  加賀様と言われても素町人《すちようにん》の伊三次にはどのような屋敷なのか見当もつかない。心許《こころもと》ない表情になった伊三次に「越前金沢の大名だ。外様《とざま》ながら将軍家とも因縁の深いお家だ」と、不破は続ける。 「しかし、お武家のことは、町方の旦那には関わりがねェことでしょう」  おずおずと言った伊三次に不破は少しいらいらした口調で「だから、こいつは単に女隠居がどうしてそんな刀を持っていたか探ればいいということだ」と覆い被《かぶ》せた。  言葉に窮した伊三次に不破は「確かに刀が女隠居の持ち物ならそれでいいのよ。越前屋は後で後ろに手が回ることになるのを恐れているだけだ」と、宥《なだ》めるように言った。 「その女隠居に会って話を訊《き》いて来いということですかい」 「うむ。物わかりがいいじゃねェか。そういうことだ」  何がそういうことだ、と伊三次は内心で独りごちた。顔見知りでもない伊三次が屋敷奉公していた女隠居の所へ出向き、仔細《しさい》を訊かせておくんなさいと言ったところでうまくいく訳がない。さしずめ玄関払いを喰らうのが落ちだろう。どうせなら越前屋が自《みずか》ら出向くのが話が早いのではないかと思った。 「越前屋さんに寄って、もう少し詳しい話を訊いて参りやす。向島に行くのはそれからに致しやす」  台箱《だいばこ》に使った道具を片づけながら伊三次は言った。 「任せる」  言い放った不破は大きな伸びをして、もうそこに伊三次がいることなど忘れたような顔になっていた。      三  茅町の一風堂に行くと、越前屋はひと足違いで出かけたと年寄りの番頭が応えた。  出直すことも考えたが、試《ため》しに伊三次は番頭に「この間、向島から刀が持ち込まれたそうですね。そのことで持ち主の素性《すじよう》を探れと八丁堀の旦那に言われたんですが、番頭さんは詳しい話を知っていなさいますか」と訊いた。  番頭は少し顔色を変え「緑川様のお指図ですか」と逆に訊き返した。 「いえ、緑川の旦那と懇意にしている定廻りの不破様です。わたしは不破様の御用をしておりやすんで」  そう言うと番頭は意外そうな顔つきになった。 「手前は髪結いさんが緑川様のご家来と思っておりました」  一風堂を訪れる時は緑川と一緒のことが多い。番頭がそう思うのも無理はないと思った。 「まあ、緑川の旦那の手先を務めることもよくありやすが……向島の女隠居のことを調べなきゃなりやせん。番頭さん、知っていることだけでも話していただけやせんか」 「は、はあ」  番頭は幾分、躊躇《ちゆうちよ》するような表情だったが、ぽつぽつ語り始めた。 「持ち込まれた刀はいずれも正宗《まさむね》、井上真改《いのうえしんかい》、虎徹《こてつ》など、名刀ばかりでございました。手前も長いこと、この店の番頭をしておりますが、一度にこれだけの名刀を拝見したのは初めてでございます」  番頭はすらすらと刀の銘柄を並べるが、素町人の伊三次にはピンとこなかった。由緒のあるものだろうぐらいに思っただけだ。 「ここの旦那は売り捌いた後に問題が起きることを恐れていらっしゃるようですね。もしも贋作《がんさく》ではないかと。あるいは盗品かと」  盗品とわかったら刀は没収されるし、支払った金は戻ってこない。下手をすれば奉行所から咎《とが》めを受けて商売を続けられなくなる恐れもある。越前屋は慎重な男だから念には念を入れたいのだろう。 「いや、そうではなくて……」  だが、番頭は目脂《めやに》の浮き出た眼をしばたたいて居心地の悪そうな顔になった。 「何かあるんですかい」  不審を覚えた伊三次はすぐに番頭に畳《たた》み掛けた。 「贋作ではございません。正真正銘の本物です。盗品の恐れはありますが、それより旦那様は妙に胸騒ぎがするとおっしゃっているんですよ」 「胸騒ぎ?」  例の病が出たのかと伊三次は思った。 「はい。どうも気が進まないご様子でした」 「旦那は時々、気味の悪いことをおっしゃいやす。こちとら、その度に脅《おど》かされておりやすよ。ついこの間も鰻屋に行ったら、そこの年寄り夫婦の顔が鰻になっていたなんて笑えない冗談をおっしゃいやしてね、とうとう蒲焼は喰わなかったんですよ」 「小川の鰻ですか」  番頭はにこりともせずに訊く。 「へい。滅多に口にできねェほどの極上の味でしたぜ。もっとも、ご馳走になった後でそんな話をされたんで、帰ってから胸焼けがして往生しやした」 「あそこの主のご両親は、つい先日、相次いでお亡くなりになりました」  番頭は早口に言った。途端、伊三次の喉元から「げッ」と、妙な声が洩《も》れた。 「それは本当ですかい」  伊三次の顔色は多分、少し変わっていたのだろう。番頭は気の毒そうな眼になってこくりと肯《うなず》いた。 「どちらも心《しん》ノ臓《ぞう》の病でした。この頃はお天気が悪かったので、お年寄りの中には身体の調子を崩《くず》される方も多いものです。手前も気をつけませんと」 「それはあれですかい、長いこと、生き物を殺生して商いをした祟《たた》りですかい」 「さあ、そうも考えたくなりますが、そんなことを言っていたら魚屋は商売になりませんでしょう」  番頭は埒《らち》もないというように応える。 「しかし、ここの旦那の霊感という奴もあながち的外《まとはず》れではありやせんね」  伊三次の言葉尻にため息が混じった。とすれば、向島にはどんな恐ろしいことがあるのかと、早くも伊三次は怖《お》じ気《け》づく。 「旦那様は髪結いさんが味方についてくれるのなら千人力だとおっしゃっておりました」 「お、おれが?」  どうして越前屋がそんなことを言ったのか見当がつかない。伊三次は霊感どころか人並の運さえ持ち合わせてはいない。さして実入りのよくない本業と、割の合わない裏の仕事。忙しいばかりで相変わらずの貧乏暮らしだ。どこが千人力かと皮肉な気持ちになる。  これは手前《てめ》ェが危険な目に遭《あ》いたくないために伊三次を向こうに差し向ける方便《ほうべん》だろうと考えたくもなる。だが、番頭は「髪結いさんはまれに見る強運の持ち主でいらっしゃるそうです」と、あっさり応えた。 「ご冗談を。おれが強運なら、しがねェ廻り髪結いなんざしておりやせんよ。|ぱりっ《ヽヽヽ》と表通りに床《とこ》を構え、下剃《したぞ》り(弟子)の二、三人も使って豪気《ごうき》にやっておりやすよ」 「いえ、そういうことではなくて……」  愚痴《ぐち》っぽくなった伊三次に番頭は薄く苦笑いした。 「今まで何度か危ない目に遭ったことがおありになりますね」 「………」 「命が危なかった時のことを思い出して下さい。それは緑川様からも度々|伺《うかが》っております」 「さてそれは……」  同心の小者をするようになって、かれこれ十年近く経《た》つ。その間に手掛けた事件は数え切れない。十手も匕首《あいくち》もなく、ただ護身用の錐《きり》を仕込んだ髷棒《まげぼう》一本で下手人と闘ってきた。  考えてみたらずい分、危ないこともあった。そこをすり抜けて来たのは、ある意味で強運と言えるかも知れない。だが、本当にそれは強運だったのだろうか。伊三次にはわからない。 「旦那は本当におれのことを強運だとおっしゃったんですかい」 「はい。嘘ではございません。この度のことも、きっとうまく収めて下さるはずだとおっしゃいました。ですが、これからお会いする方は、とてもひと筋縄《すじなわ》では行きませんので、くれぐれも油断なさらないようにお気をつけて下さい」  何んだ、番頭は伊三次が手を貸すことをとっくに承知していたのかと思った。それならもったいをつけずに、さっさと話せばよかったのだ。一風堂で刻《とき》を喰ったことに伊三次は舌打ちしたい気持ちだった。  しかし、向島に住む女隠居とはそれほど手ごわい相手なのか。幾ら強運と言われても伊三次の気持ちは奮起《ふんき》するどころか萎《な》える。越前屋が胸騒ぎを覚えているなら、なおさら。  とり敢《あ》えず、女隠居の居所を訊いて伊三次は一風堂を出た。まずは女隠居の寮を外からでも眺めてみようという気になった。  何もせず、ぐずぐずと日を暮らせば不破の機嫌は悪くなる。せめて寮のたたずまいと、庭からでも女隠居の顔を拝《おが》めたら御《おん》の字だと思っていた。      四  吾妻《あづま》橋を渡った辺りから糠《ぬか》のような細かい霧雨が降ってきた。傘を差すほどではないが黙っていると顔が濡れる。伊三次は台箱を持ち換えて、顔の水気を拭った。  目指す寮は源兵衛堀《げんべえぼり》に架かる業平《なりひら》橋のすぐ近くの中《なか》ノ郷《ごう》村にある。ちょうど、寮の前に奈良茶飯《ならちやめし》を喰わせる茶店があると番頭は教えてくれた。  花見の季節は大勢の客で賑わう向島も、今はひっそりとして通り過ぎる人も疎《まば》らだ。  瓦焼場《かわらやきば》があるので、煙突から出た白い煙が風のせいで真横に流れて行く。  通りの辻《つじ》に掛かると広大な武家屋敷が源兵衛堀越しに見えた。水戸|侯《こう》の下屋敷らしい。  小梅代地《こうめだいち》町から業平橋に出ると茶店が見えた。天気が悪いので、普段は外に出している床几も引っ込め、「ならちゃ」と白く染め抜いた柿色の暖簾が風にはためいている。こんな所で商売になるのだろうかと伊三次は思った。茶店の南側には斜めに道がついていた。  そこへ足を向けた時、急ぎ足でやって来た女とすれ違った。女は伊三次と同じように髪結いの台箱を携《たずさ》えている。深川でお文《ぶん》が髪を頼んでいた女髪結いのお久《ひさ》だった。 「お久さん」  声を掛けると、お久は|きょとん《ヽヽヽヽ》とした表情になり、それが伊三次とわかると人なつっこい笑顔になった。 「あら、しばらくだこと」 「こんな所まで丁場《ちようば》(得意先)を拡げているのかい」 「違うの。頼まれて渋々なんだよ。深川からここまで来るのも骨さ。手間賃には色をつけて貰っているが、帰るとくたびれて他の事ができないから同じだ」 「しょっちゅうかい」 「いいや、五日に一度だ。何しろお武家奉公をしていたお人だから気難しくてさあ」  |つん《ヽヽ》と伊三次の胸が疼《うず》いた。 「もしや六十がらみの女隠居の所じゃねェのかい」  そう言うとお久の眉が持ち上がった。顔も身体もふっくらしているが色の白い女である。  年は三十の半ばだろうか。大工の亭主がいるが、この亭主が遊び好きなので苦労すると毎度こぼしていた。だが、三人の息子の内、一人は髪結いの修業を始めたので、お久はあれこれ教えられると張り切っている。 「ちょいと、どういうお人なのか聞かせてくんねェな」 「どういうお人って……何んだか目明《めあ》かしみたいだねえ」  お久は伊三次が同心の小者をしているのは知らないので疑わしい目つきになった。 「茅町の道具屋の客からどんなお人なのか訊いてきてくれと頼まれたんですよ」  伊三次は慌てて言い訳した。 「この頃、ご隠居様は身の周りの物を売りに出しているから、その道具屋にも何か持ち込んだのかえ」 「あい、そういうこと」 「でも、あたしもさほど知っちゃいないのだけど……」 「茶でも一杯|奢《おご》らしてくれ。そこの茶店はどうかな」  伊三次は傍《そば》の茶店に顎をしゃくった。お久は悪戯《いたずら》っぽい顔になり、「あたし、昼飯を喰いはぐれたんだけどねえ」という。 「そ、そうかい。そいじゃ好都合だ。飯を喰いながら聞かせて貰うぜ」  余計な掛かりが増えるが、この際、仕方がなかった。  暖簾を掻き分けて店の中に入ると、案の定、客は誰もいなかった。伊三次は奥の小上がりにお久を促した。店の中は結構広かった。客が立て込めば三十人も入れるだろう。だだ広い店に客が二人だけというのも妙なものだ。  お久は茶を運んで来た小女に嬉しそうに奈良茶飯を注文した。伊三次は昼に蕎麦を食べたが、お久につき合っても日本橋へ帰る頃には、腹はこなれているだろう。  奈良茶飯は奈良の東大寺《とうだいじ》や興福寺《こうふくじ》の僧侶達の精進料理である。当初は茶を淡く煎《せん》じたものに塩を加えて炊き上げた飯だった。庶民に拡がるにつれ、そこへ炒《い》り大豆、炒り小豆《あずき》、焼き栗が入るようになった。とりわけ、女達に贔屓《ひいき》が多い。  ほどなく運ばれて来た奈良茶飯には豆腐のすまし汁と煮豆、香の物が添えられていた。  お久は両手を合わせて「いただきます」と言ってから箸《はし》を取った。 「女隠居が奉公していたのは加賀様のお屋敷ですかい」  伊三次も箸を取って話を続けた。 「さあ、そこまではあたしも知らない。でもとにかく寮の中は見事なお道具が揃っているよ。この間、綸子《りんず》と縮緬《ちりめん》の小袖が思わぬほど高く売れたんで喜んでいた。ご隠居が生きてる内は、そうして売ったところでおつりがくるというもんだ。いいねえ、売る物がある人は」 「身の周りの物を売るというのは、手許《てもと》が心細くなったからなんだろ?」 「ええ、外からは何不自由なく見えても内所は火の車って所は多いからねえ。わ、この煮豆の硬いこと」  お久は小鉢の煮豆を噛んで顔をしかめた。  伊三次は豆の類があまり好きではないので、飯の中の物も栗を除いては脇に寄せた。どうせなら何も入れない茶飯の方がいいのにと胸の中で思った。 「で、ご隠居はかなり難しいお人のようだが」 「そうねえ、あたしが行っても、にこりともせずにお願いしますよ、と言うだけだ。別に注文をあれこれつける人じゃないけど、およそ愛想もないから仕事をしている間は気詰まりで仕方がないよ」  お久はくさくさした表情になったが食べ物を運ぶ手は止まらない。 「伊三さん、ご隠居の頭をやるかえ」  しばらくして、お久はふと思いついたように訊いた。 「お、おれが?」 「丸髷《まるまげ》なら雑作《ぞうさ》もないだろ。この次の日、あたし、祝言をする花嫁さんの仕度があるんだよ。あんたが引き受けてくれるんなら助かるんだけどねえ」  伊三次は緊張した。千載一遇《せんざいいちぐう》の機会だ。越前屋の「強運」と言った言葉が思い出された。  伊三次が黙って肯くと、お久は「あら、もったいない」と、伊三次が脇に寄せた豆に箸を伸ばした。  外は相変わらず細かい雨が降っていたが、帰るまで何んとか本降りにはならずに済んだ。      五  不破は、伊三次が女隠居の髪をやることになったと告げると、へえ、という顔になった。 「手回しが早ェじゃねェか」  笑いを堪《こら》えるような顔で言う。 「ですが、越前屋さんは妙に胸騒ぎがするとおっしゃっておりやすんで、わたしはどうも気が進みやせん」 「誰か連れて行け」 「弥八《やはち》ですかい」  京橋で湯屋の仕事をしている弥八は頼りになる男だ。だが不破は「駄目だ。大《だい》の男を伴にしたら相手に疑われる」と言下に否定した。 「そいじゃ、誰を」 「お前ェの所に小僧がいるじゃねェか。こんな時には役に立つ」 「ですが……」  小僧の九兵衛《くへえ》はまだ十一で、いかにも心許ない。それに何か間違いでも起きたら、ふた親に申し訳が立たない。  躊躇した伊三次に不破は「いいか。もう少し突っ込んだ話をしてやろう。お前ェが女隠居の髪をやると聞いたからな。寮の中に入ったら、刀がねェか探せ。越前屋に持ち込んだ他にもきっとあるはずだ」と言った。 「刀……」 「恐らくは鞘《さや》も白木で、鍔《つば》もついていないものだ。あったらすぐに知らせろ。だが、間違っても手を触れるな。まして鞘を抜くなど決してしてはならぬ」  不破はその時、真顔になっていた。不破がそんな表情になるのは珍しいことだった。 「半年ほど前に、ある大名屋敷の用人から、代々、お家に伝わる名刀がごっそりなくなっていると片岡《かたおか》様に相談が持ち込まれたのよ。片岡様は江戸府内の刀剣商に内々の廻状《かいじよう》を出したが、それからさっぱり音沙汰《おとさた》がなかった。ところがこの度、向島から持ち込まれた刀を見て、越前屋はピンと来たらしい。例の大名屋敷のものだってな」  片岡|郁馬《いくま》は北町奉行所の吟味方《ぎんみかた》与力を務めていて、不破が懇意にしている男だった。 「向島の女隠居はそのお屋敷に奉公していたんですかい」 「そういうことになるな」 「旦那は加賀様ではないかとおっしゃっておりやしたね。そうなんですかい」 「いや、加賀様ではない。こっちが勝手な当て推量をしていただけだ。何しろ片岡様もはっきりおっしゃらなかったからな。大名家の名はお前が知らなくともよいことだ。どうやら女隠居は務めを退《の》く時に身の周りの道具と一緒に刀を運び出したらしい」 「そういうことでしたら、何んで与力様は大目付《おおめつけ》様の方に伝えて、しょっ引《ぴ》かねェんでござんす? お武家様のことは、あちらの問題でござんしょう」 「察しが悪い野郎だ。こいつは内々の御用と言っただろうが」  不破は伊三次の話の腰を折って吐き捨てるように言った。 「どうも旦那の話はもう一つよくわかりやせん。いってェ、その刀にどんな曰《いわ》くがあるんで」  そう言うと不破は短い吐息をついた。 「その刀はな、将軍家にとって因縁の妖刀なのよ。安国院《あんこくいん》(徳川家康の法名)様から三代に亘《わた》って災《わざわ》いが起きておる。ために将軍家は二度と災いが起こらぬように封印して納戸の奥にしまい込んだ。大名家でもその刀の所持は禁じられておる。所持するだけで謀叛者《むほんもの》という見方をされるのだ」 「では、その大名屋敷はこっそりそれを所持していたということですかい」 「うむ」  伊三次はようやく合点がいった。その大名屋敷が事件を公《おおやけ》にできなかった訳だ。 「しかし、何んで女隠居はそんな大それたことをしたんで」 「奉公していた時に先代、いや、先々代の藩主になるのかな、ある日、そっとその刀を取り出して眺めたそうだ。その時、女隠居は傍にいたらしい。恐らくは藩主に刀を早く収めよと忠告したんだろう。ところがそこから先がおれでもわからぬ。藩主は鞘を手に取った女隠居をばさっとやってしまったらしい」 「し、死んだんですかい」 「馬鹿野郎! 死んだら向島にいるのは幽霊になるだろうが」  間抜けなことを言ってしまったと伊三次は首を竦《すく》めた。 「屋敷の用人は刀さえ戻れば女隠居を咎めるつもりはないらしい。問題は女隠居が何を考えてその刀を手許に置いているかってことだ」 「そういう事情なら、九兵衛は連れていけやせん」 「なら、どうする」 「わたし一人で参りやす」  伊三次はきっぱりと言った。不破は伊三次の顔をしばらくじっと見ていたが、黙って肯いた。  おれは強運、おれは強運。  向島へ向かう道々、伊三次は何度も胸で呟《つぶや》いた。その前に越前屋に寄って女隠居の所へ行くことを伝えた。越前屋は心配になったらしく、自分もついて行くと言った。 「いえ、見掛けねェ男が寮の周りをうろうろするのは向こうに疑いを持たせることになりやすから」  伊三次は越前屋の申し出を柔らかく断った。 「それに今日は女隠居の様子を見てくるだけですから大事はねェでしょう」 「そ、そうですね。あせることはありません。ゆっくり慎重に事に及ばなければ。しかし……」  越前屋はそれでも心配そうな表情が消えなかった。 「胸騒ぎがするんですかい」 「ええ、まあ」  曖昧《あいまい》に肯く。 「越前屋さん、おれはあんたが嫌いじゃねェが、一つだけ気に入らねェことがありやす」  伊三次は奥歯を噛み締めて言った。越前屋は怪訝な眼で伊三次を見つめた。 「何んでも彼《か》でも訳のわからねェもののせいにするのはいい加減にしなせェ。おれがこれから逢うお人は幽霊でも魔物でもねェ。生きてる人間だ。そのお人がご法度《はつと》の刀を隠し持っているということは、そこに何かの事情があるはずだ。おれはそれを探りに行かにゃなりやせん。胸騒ぎがするだの何んだのと脅かされても御用は御用だ。仮にそこで万一のことがあっても、それはおれの運が悪かっただけで、決して刀のせいじゃねェと思いやす」  越前屋は黙ったままだった。 「ついでに言うが、小川の年寄り夫婦は寿命《じゆみよう》でお陀仏《だぶつ》になっただけだ。あんたが見たものは夢か幻《まぼろし》ですぜ。向島の麦飯を腹に抱えた鯉も、近所の連中がたまたま餌《えさ》に麦飯をやったんでしょう。そう考えたら、この世に不思議なことは一つもありゃしねェ。おれはそれが言いたい訳で」 「……おっしゃる通りです。手前は考え違いをしておりました」  越前屋は慇懃に応えて短い吐息をついた。  越前屋に啖呵《たんか》を切ったのは自分をふるい立たせるあまり、つい口から洩れたものだ。だが、一風堂を出ると不思議に気持ちは落ち着いた。  女隠居の心の内を知ること、伊三次にとって、それが一番の問題に思えた。      六  雲はまだ少し空を覆っていたが、それでもこの間、向島を訪れた時より外は明るい。この様子では明日こそ天気になるだろう。  考えてみたら、十日あまりもお天道さんの顔を拝んでいない。気の重い御用をする時は、せめて天気ぐらいよくなってほしいものだ。  寮の勝手口から訪《おとな》いを入れると、女中らしい女が出てきた。その女も結構な年に思えた。  お久さんはどうしたのかと訊いたので、急な野暮用ができたので自分が代わりに来たと応えた。女中は伊三次をそこへ残したまま奥へ消えた。伊三次は勝手口から台所の様子を窺《うかが》った。鍋釜の類は特に高価そうな代物でもなかったが、癇性に磨き上げて流しの棚の上にきちんと置かれている。根来塗《ねごろぬ》りの戸棚のある板の間も掃除がゆき届いていた。それでいてどことなく陰気な感じがするのは、女隠居のことを聞いているせいか、それとも鰹節《かつおぶし》に似た台所にこもる匂いを嗅《か》いだせいだろうか。  ほどなく女中は戻って来て、「それではお上がり下さいませ」と、中へ促した。  台所から仄《ほの》暗い廊下を進み、坪庭をぐるりと回って伊三次は女隠居の部屋に入った。  屋敷は外から見たよりも奥行きがあった。  その部屋は庭に面していた。開け放した障子の外から弱い陽の光が射している。入れ替えたばかりのような畳の青さが清々しい。  床の間には山水画の掛け軸が下がり、その下には大振りの黄色の菊が生《い》けられている。  違い棚には紐《ひも》つきの塗りの文箱《ふばこ》。調度品は、なるほど贅《ぜい》を凝《こ》らしているが、お久の話ほど部屋の中は豪勢には思えなかった。町家の大店の中にはもっと派手に家の中を飾っている所があったからだ。目当ての刀は当然ながら影も形もない。  庭は坪庭とは別にあるものだった。女隠居の寮は鬱蒼《うつそう》とした樹木に囲まれた中にある。  夏は緑陰《りよくいん》の効果で涼しいだろうが、この季節は薄暗く鬱陶《うつとう》しい。  やや太り肉《じし》の女隠居は綸子の座蒲団に背筋を伸ばして座っていた。御納戸《おなんど》色の鮫小紋《さめこもん》に茶の博多帯という普段着だったが、女隠居から醸《かも》し出される威厳《いげん》のようなものに伊三次は胸を衝《つ》かれた。  大きな二重瞼が伊三次を品定めするように抜け目なく光った。 「髪結いの伊三次と申しやす。本日はお久さんの代わりに参りやした。お気に召すかどうかわかりやせんが髪をやらせていただきやす」  伊三次は台箱を傍に置いて深々と頭を下げた。 「お久さんの代わりというから、おなごの髪結いとばかり思うておりました。殿方の、しかも若い髪結いとなれば、何んぞ気恥ずかしいような気になりまする」  野太い声ながら上品で、僅かに頬を染めた様子が初々《ういうい》しい。緊張していた伊三次の気は少し弛《ゆる》んだ。 「たかが髪結いに何んの遠慮もいりやせん。お楽になさって下せェやし。場所はそちらでよろしいですかい」 「はい、ここで」  女中はすぐに女隠居の前に蒔絵《まきえ》の鏡台を置いた。その鏡台は唐風《からふう》の意匠《いしよう》で、伊三次の眼にも大層高価そうに見えた。鏡台には二つの小引き出しがついている。定期的に磨《みが》きに出しているらしく、鏡面は一点の曇りもなかった。  伊三次が台箱から毛受《けう》けを引き出すと、女中はそれを横から女隠居の前に差し出す形で持った。女隠居は膝の上で両手を合わせていたが、手は袖口の中に隠れて見えない。手を見せないのは武家の女のたしなみかと伊三次は思った。  白髪混じりの髪は根の部分が薄く禿《は》げ上がっていた。伊三次は丁寧に髪を梳《す》く。時々、鏡に映る女隠居の表情をそれとなく窺った。  女隠居は眼を閉じて気持ちよさそうだ。反対に女中は窮屈な姿勢を取らされて辛そうだった。髪の量が少ないため、伊三次は髷に髢《かもじ》を足して膨《ふく》らみを持たせた。元結で縛《しば》り、ぐっと折り曲げて髷を調《ととの》えると、女中の表情が動いた。 「奥方様、いいおぐしになりましたですよ」  そんな愛想を言う。女隠居が眼を開けた。  髪の様子よりも仕事をしている伊三次を鏡越しに見たような気がした。伊三次は女隠居の視線をそっと避けた。  小半刻後、髪は結い上がった。女隠居はためつすがめつ、鏡の中の自分に見入った。 「手捌きがやや乱暴かと感じたものだが、そうではなかった。勢いでございましたな。結構でございまする。これ、おまさ、手間賃を差し上げてくりゃ」 「はい」  女中は懐紙《かいし》に包んだものを伊三次に差し出した。伊三次はこくりと肯いて、それを懐に入れた。 「ご苦労であった。お茶など召し上がってからお帰り下され。これ、おまさ」  伊三次に茶を振る舞うとは、よほど髪が気に入ったようだ。女中は慌てて部屋を出て行った。  伊三次は台箱に道具を片づけながら、話の接《つ》ぎ穂《ほ》を探した。 「ここにお住まいになって長いんでござんすかい」  そう訊くと女隠居は訝《いぶか》しい眼になった。 「や、これは余計なことを」  慌てて言い繕った。 「三年ほどになりまする」  だが、女隠居はぶっきらぼうに応えた。 「花見時は賑やかでしょうが、今の季節は静かですね」 「風が吹けば、樹木のさやぎが、それはやかましゅうて眠られませぬ」 「ご隠居様の所は樹《き》が多いですからね。お庭はどれほどの広さでございやすか」 「さて、わらわも正確なところは知らぬ。亡きお殿様に拝領したものゆえ」 「お武家奉公をなさっていたご様子で……」 「あの女髪結いが言うていたのであろう。おなごは口が軽くて困る」  女隠居は不愉快そうに剃り落とした眉をひそめた。台箱を片づけ、女中が茶を運んで来るまでが長かった。伊三次は時々庭に視線を向けながら、今日のところはこれぐらいで引き上げなければならないだろうと思っていた。  お久に頼んで、もう一、二度、髪をやらせて貰うしかない。見返りに汁粉か蕎麦を奢る羽目になるのは仕方がない。  ようやく女中が運んで来た茶は、抹茶だった。茶道の心得などない伊三次はさらに居心地が悪くなった。塗りの菓子皿に紅葉と末広をかたどった干菓子《ひがし》がのせられている。 「ご隠居様、わたしは、いたってこの手のお茶は不調法《ぶちようほう》で」  おずおずと言うと、女隠居は艶冶《えんや》な微笑を浮かべた。 「構わぬ。好きに飲むがよい」 「へ、へい。それじゃ、遠慮なく」  末広の菓子を口にしてから緑色の泡の立つ抹茶をひと息で飲み干した。口中に淡い苦味が拡がった。うまいのかまずいのかよくわからない。 「もう一服、いかがでございますか」  女中が勧めた。伊三次はこくりと頭を下げた。女中が茶碗を手にして部屋を出て行こうとした時、女隠居は「一風堂から何んぞ連絡は来ぬか」とさり気なく女中に訊ねた。伊三次の胸がどきりと音を立てた。 「茂作《もさく》さんは何もおっしゃっておりませんが」  女中はすまなさそうに応えた。茂作とは下男のことを指すようだ。伊三次は一風堂のことを持ち出すべきか、そうでないか悩んだが、意を決して口を開いた。 「一風堂とは茅町の道具屋さんのことですか」  そう言うと女隠居と女中は顔を見合わせた。 「そなたの存じよりの店か」  女隠居が訊く。女中は一旦、腰を上げたが、また控え目に座って伊三次の話を聞く恰好になった。 「へい。あすこの旦那には可愛がって貰っておりやす」 「しっかりした店と聞いておったので品物を託したが、それから音沙汰がない。どうしたものかと案じておるところじゃ」 「品物は刀ですかい」 「うむ……」  女隠居は幾分、気後れした表情で、それでも応えた。 「さぞやご大層なものなんでござんしょう。あまりご大層だと、却《かえ》って売れねェことがございやす」 「生意気な口を利く……」 「いえ、これは越前屋の旦那がおっしゃっていたことです」 「さようか」 「どうせご大層なら、いっそ徹底的にご大層なもんが売りやすいと思いますが」  伊三次はもう少し突っ込んだ言い方をした。そうしなければ問題の刀に辿《たど》り着けない。  しかし、いかにも言い方がまずかった。 「そなたの言うことはよくわからぬ。徹底的にご大層なものとは何を指しておるのじゃ」  口調に怒気《どき》が含まれた。伊三次は腋《わき》の下に汗を感じた。 「そのう……何か特別に曰くのあるものとか」  言った途端、女隠居は伊三次の頬を打つ仕種《しぐさ》になった。伊三次はそれをすいっと避けたが、表情は凍りついた。伸ばした女隠居の左腕は手首から先がなかった。丸太ん棒を振り回されたような感じがした。伊三次が体《たい》を躱《かわ》した拍子に膝《ひざ》に菓子皿が当たった。紅葉の干菓子は縁先に飛んだ。  そうか、藩主が刀で|ばさっ《ヽヽヽ》とやったのは、女隠居の手首だったのかと思った。奉公していた大名屋敷の用人が刀を持ち出した女隠居を敢《あ》えて咎めないと言ったのも、一人で住むには広過ぎる屋敷を与えられているのも、すべて合点がいった。 「そなた、犬か」 「とんでもねェ、わたしは、しがねェ廻りの髪結いです。ご無礼のほどは平にお許しを」  伊三次は平身低頭して謝った。 「奥方様、この髪結いは、ただ者ではございません。ご公儀の間者《かんじや》かも知れません」  女中が気色《けしき》ばんだ声を上げた。 「この部屋に入って来た時から何やら探るような目つきをしておった。やはりそうか」  伊三次は無言で首を振ったが、図星を指された胸の内は苦しい。膝頭を掴んで俯《うつむ》いた。  長い沈黙があった。 「このまま戻す訳には参らぬ。髪結い、覚悟しや」  やがて、女隠居は強い口調で伊三次に言った。女中は脱兎のごとく部屋を出て行った。  用心棒でも雇っているのだろうか。越前屋に同行して貰うべきだったと思ったが後の祭りである。伊三次は震える声を励ました。 「そうかい、そうですかい。そういうことなら、おれも素性を明かしやしょう。おれは町方役人の小者をつとめておりやす。ご隠居様が奉公していたお屋敷から刀を持ち出したのは先刻承知のことですぜ。お屋敷のご用人から内々に奉行所に話が持ち込まれていたんでさァ。一風堂に持ち込んだ刀はご大層な代物でしたが、それよりもさらにご大層な刀をご隠居様は隠していなさるはずだ。いってェ、どうなさるおつもりで。これが千代田のお城のお偉いさんに聞こえたら、ご隠居様はもちろん、お世話になったお家もお取り潰《つぶ》しですぜ。幾ら、手首を落とされた恨みがあろうとも、こんな立派なお屋敷にぬくぬくお住まいになっているんだ。ちょいと薄情なやり方じゃござんせんか。悪いことは申しやせん。どうぞ、刀をあちらにお戻し下せェやし」  伊三次はいっきに喋った。 「わらわは奉公していたお家に恨みなどない。詮索《せんさく》は無用じゃ」  片膝を立て、身構えた伊三次は自分の頭に手をやり、そっと髷棒を引き抜いた。 「それならどうするおつもりなんで。刀はおなごのあんたには無用のもの」 「この泰平の世に、|たれ《ヽヽ》にとっても刀など無用のものじゃ。人は刀を持てば斬りたがるもの。わらわは無駄な殺生《せつしよう》を避けるためにしたことじゃ」 「妙な理屈でござんすね。ご隠居様は一風堂に刀を売りに出したんでござんしょう? それを買った者がどうするかは考えねェんですかい」 「お屋敷以外の者が殺生したところで、わらわの関知することではない」 「勝手な言い種だ」  下男がいつの間にか現れて女隠居の傍に立った。なぜか嬉しそうな表情をしているのが気味悪い。下男の手には白木の一刀が握られていた。それこそ、因縁の妖刀に違いない。  伊三次は立ち上がり、一歩後ろへ下がった。  女隠居も立ち上がり、下男から刀を受け取ると鞘を払った。切っ先が仄暗い部屋の中でも青光りして見えた。下男は後ろ手で縁側の障子を閉める。飛んだ干菓子の茜《あかね》色も視界から消えた。 「わらわはこの刀で手首を落とされた。だが恨みは覚えておらぬ。この刀は自ら持ち主を選ぶのじゃ。徳川様には忌《い》み嫌われたが、徳川様にこの刀を持つ器量がなかっただけのこと」 「畏《おそ》れ多いことをおっしゃいやす。素町人のおれを斬るのは刀の汚れになりやせんかい」 「すべて不浄《ふじよう》なものをこの刀は斬る」 「そいじゃ、ご隠居様の手もさぞや不浄だったんでござんしょう」  言った途端、|びゅっ《ヽヽヽ》と切っ先が空を斬った。 「よしなせェ。危ねェ!」  巧みに回り込んで伊三次は刀を避ける。女中がそうはさせまいと伊三次の帯を掴んだ。 「放しやがれ!」  振りほどいた瞬間、信じられないことが起こった。体勢を失った女中が後ろ向きになったところへ切っ先が来て、女中の首に当たった。血しぶきが女隠居の結い立ての髪に飛んだ。両手を泳ぐように振る女中は、そのまま女隠居の身体の上に倒れ込んだ。鈍い音が聞こえた。女中が倒れ込んだ拍子に、どうしたことか、刀は女隠居の胸にも刺さったらしい。  獣《けもの》めいた悲鳴が上がり、重なった二つの身体が芋虫《いもむし》のようにもがく。下男はそれを見て、咄嗟《とつさ》に女隠居の手から刀をもぎ取った。刀についた血は下男が振り上げると、|つつっ《ヽヽヽ》と下に滴《したた》った。 「よしなせェ、お前ェさんまで。そいつはただの刀じゃねェ、魔物がとり憑《つ》いている妖刀だ」  伊三次がそう言うと「へへ」と下男は笑った。口が半開きになり、そこから赤い舌をちらちら見せる。斬られる恐怖よりも下男の尋常ではない表情に伊三次は心が凍った。下男が一歩足を進めた時、死に切れずにもがく女中の身体が下男の足許を掬《すく》った。思わず、つんのめった下男はそのままばったりと前に倒れた。伊三次は下男から刀を離すため、すぐさま足で刀を部屋の隅に蹴り上げた。しかし、興奮して勢いがついていたためか刀は宙に浮き、あっと思う間もなく、下男の盆の窪《くぼ》に切っ先が刺さった。断末魔の声が伊三次の耳に響いた。下男は俯《うつぶ》せの恰好でしばらくもがいていたが、やがて動かなくなった。女隠居も女中も動かない。  おれは何もしていない、と伊三次は思った。  今見たことが信じられなかった。まるで、あらかじめ仕組まれたような三人の動きだった。それとも刀がそう仕向けたものだろうか。 「もう気が済みやしたでしょう。もうたくさんでござんす。どうかこれからは災いを起こさねェようにお願い致しやす」  下男の首に垂直に立つ刀に伊三次は呟いた。  障子を開けると、西陽が|かッ《ヽヽ》と入って来た。どうやら、外は晴れたらしい。  その西陽に反射して刀身が光った。伊三次は今しも自分に向かって刀が飛んで来るような気がした。  恐る恐る足を踏み出し、伊三次はその部屋から出た。カタリと背中で音が聞こえたが、伊三次は振り向かなかった。      七  女隠居が持ち出した刀は奉公していた屋敷に戻されたが、問題の刀は供養して二度と人目に触れることのないように土中深く埋められたという。  伊三次はとうとう、その刀の銘《めい》を知ることはなかった。越前屋も敢えて伊三次に告げようとしなかったからだ。知る必要もないと伊三次は思っている。  魔性の刀にまつわる話は枚挙に暇《いとま》がない。  讚州《さんしゆう》丸亀《まるがめ》城に伝わる「にっかり青江《あおえ》」は幽霊を斬り魔物を封じたという。  研ぎ師の夢に現れた刀の化身は美しい姫だった「姫鶴一文字《ひめつるいちもんじ》」。人を斬るために造られた刀にどうしてそのような不思議が起こるのであろうか。  やはりそこに命を絶つことの畏れ、あるいは懺悔の思いが残るからではないのだろうか。  人が人を殺《あや》めるのはきっと傲慢《ごうまん》以外の何ものでもないのだろう。そう伊三次は思う。  伊三次は不破や緑川のたばさんでいる刀に特別な眼を向けることが多くなった。  不破の刀は黒蝋色塗《くろろいろぬ》りで、柄《つか》は鮫皮《さめがわ》に黒糸が巻かれている。さほどの代物ではない。八丁堀の同心が携える、ごく一般的なものらしい。伊三次は何度か不破が刀を抜いて下手人と対峙《たいじ》するのを見てきた。不破は峰撃《みねう》ちの技《わざ》がうまい。反対に緑川は臆《おく》することなく下手人を斬る。  そのために奉行所からやり過ぎであると咎めを受けることもままあった。  伊三次は不破の配下の小者であることに僅かに安心を覚える。少なくとも不破は緑川よりも人の命を重く考えていると思う。  久しぶりに仕事の途中で一風堂に立ち寄った伊三次を越前屋は快く迎えた。昼飯を一緒にどうかと誘う。  あい、と応えたが「鰻はどうも」と、伊三次は言い添えた。越前屋は小さく噴《ふ》いた。 「この間、派手な啖呵を切った伊三次さんにしては似合わないことをおっしゃいますな」 「あれは……」  自分をふるい立たせるためだと言おうとしたが「やはり、あんたは運のお強いお人だ」と、越前屋は感心した口調で続けた。 「あの刀のことをおっしゃっているんですかい」  そう訊くと、越前屋は肯く。 「無傷だったのは伊三次さんだけだ」 「たまたまですよ。あの刀はまるで生きてるみてェで、正直、肝《きも》が冷えやした。女隠居は刀が持ち主を選ぶのだと言っておりやした」 「そうかも知れません。わたしも緑川様も、あの刀には気に入られませんでした」 「どういうことで」  そう訊くと越前屋は黙って左手を見せた。  人差し指、中指、薬指の三本に繃帯《ほうたい》が巻かれていた。 「刀屋の親仁《おやじ》が刀傷をつけるなんざ、洒落《しやれ》にもなりません」  越前屋は自嘲的《じちようてき》に言う。 「あの刀で?」 「はい。お奉行所が向島の寮の検分をなさる前に、わたしはお屋敷のご用人様と緑川様と一緒に、ひと足早く、あちらへ参りました。例の刀の始末を内々につけなければならなかったからです」  伊三次はあの日、すぐに戻って不破に事情を説明した。不破は緑川に連絡を取った。  それから再び不破と一緒に向島の寮へ向かったが、その時は、刀の影も形もなかった。「旦那、例の刀がありやせん」と言うと、不破は目顔で伊三次を制した。だから、その後の事情が伊三次にはわからなかった。  小者は事件の概要《がいよう》をすべて把握《はあく》できる訳ではない。場合によっては、さっぱり合点のいかないこともある。それでも不破が訊くなという態度を見せたら口を慎《つつし》まなければならない。  向島の一件は、下男が乱心したということで処理された。 「下男の首から刀を抜いた時、何しろ血糊《ちのり》がついておりましたので、わたしは手拭いでそれを拭《ぬぐ》いました。その時にこうなりました。緑川様は何をしているんだと手を伸ばされまして、わたしが刀を渡そうとしますと、手がつい滑《すべ》りました。緑川様の掌にまともに刃が当たり、あの方も刀傷を負ってしまわれたのです」  越前屋の言葉に伊三次は何んと応えてよいかわからなかった。 「でも、伊三次さんは何んともなかったのでしょう?」  越前屋は確かめるように訊く。 「へい。おれは不破の旦那から手を触れるなときつく言われておりやしたんで、その通りにしただけですよ」 「利口なやり方でしたな」 「ですが、未《いま》だにどうしてあんなことになったのかよくわからねェんですよ」  伊三次は身振り手振りを交えて越前屋に女隠居の寮で起こったことをもう一度話した。  不破にも何度も説明したことだが、伊三次は合点がいかなかった。そもそも女隠居は本気で伊三次を斬れると思っていたのだろうか。あの年で、しかも左手が使えないというのに。女隠居は自分に刀の加護があると心底信じていたのかも知れない。  だが、刀はあっさりと女隠居を裏切った。鞘から抜かれて久しぶりに嗅いだ娑婆《しやば》の香りに舞い上がり、ものの見事に三人の命を奪ったのだ。 「まあ、あの下男の気が触《ふ》れていたのは確かなことだが。ここへ刀をもって来た時、おかしいような様子はありやせんでしたかい」  そう訊くと越前屋は「全くそのようなことはございませんでした」と静かに応えた。  では、下男は刀を握った時に異変を起こしたのか。伊三次は、あの刀を造った刀工と下男の表情が重なった気がした。刀工が尋常ならざる精神の持ち主だったに違いない。なまじ刀工としての腕があっただけに、刀まで妙な威力を持ってしまったのか。 「世の中にゃ、理屈のつけられねェことがありやすね」  伊三次はため息混じりに言った。ふっと越前屋が笑った。伊三次に釘を刺されているので、摩訶《まか》不思議のせいにはしない。 「さ、それじゃ、昼飯は菜飯《なめし》にでもしましょうか。近くにうまい店があります」  話題を変えるように越前屋は伊三次を促した。  本当は向島の寮を出る時、部屋から聞こえた物音のことを伊三次は越前屋に訊ねたかった。あれはあの刀が自分を追い掛けようとしていたからなのか。だが、それを口にすれば越前屋は伊三次が想像するより、はるかに恐ろしいことを言いそうな気がしてならない。  だから伊三次も敢えて口にはしなかった。  それからしばらくの間、伊三次は刀に追い掛けられる夢を見た。その度にうなされた。  お文が心配して肩を揺すって眼を覚ますが、決まって冷たい汗をかいていた。  息子の伊与太《いよた》まで、お文の乳首から唇を離し、不安そうな顔をした。 「大丈夫だ。もう、大丈夫だ。何しろ|ちゃん《ヽヽヽ》は強運の男だからよう」  自分に言い聞かせるように伊三次は応える。 「何が強運だ、馬鹿馬鹿しい。ちょいと強運の髪結いさん、今月の実入りはやけに少ないよ。もちっとお稼《かせ》ぎよ」  お文は欠伸《あくび》を噛み殺しながら伊三次をけしかける。悪い夢を忘れるには、お文の天真爛漫《てんしんらんまん》な表情しかない。いや、その膚《はだ》の温《ぬく》もりだろうか。 [#改ページ]   小 春 日 和      一  深川から追手を振り切って逃げるお尋《たず》ね者は竪川《たてかわ》に架かる二《ふた》ツ目之橋《めのはし》を渡り、本所へ向かった。  夕暮れの二ツ目之橋は家路を急ぐ人々で結構、混雑していた。血相を変えて走る男に誰しも驚き、慌《あわ》てて脇へよける。男はそれが当然と言わんばかりに走る速度を弛《ゆる》めない。  陽《ひ》が沈むか沈まぬかの瀬戸際は人々の顔がぼんやりと霞《かす》んで見える。表情はよくわからない。逃げる男もそうだ。恐らく必死の形相をしているはずなのに、ふと振り返った顔は眼も鼻もない、|のっぺらぼう《ヽヽヽヽヽヽ》のように思えた。まさに逢魔《おうま》が刻《どき》と言われる不確かで心許《こころもと》ない時刻に差し掛かっていた。  男は六助《ろくすけ》という名で、左官職人だった。だが、この半年足らずの間に婦女子への暴行、傷害、殺しと、悪の限りを尽くしていた。六助はまだ三十三歳の男盛り、働き盛りである。いったいどうしてそのような無法な行為に走るのかと、奉行所の役人、配下の小者《こもの》達に考える隙《すき》も与えず、六助は次々と事件を起こしていく。その無謀《むぼう》で非情なやり口は、とうとう北町奉行、永田備後守《ながたびんごのかみ》をして「なぶり殺しにせよ」と、過激な言葉を言わせるまでになった。  両親が幼い頃に死に、親戚をたらい回しにされて育ったこと、左官職の親方の所へ弟子入りしたが、兄弟子に、さんざ苛《いじ》められたこと、ようやく一人前になり、親方の薦《すす》めで所帯を持ったものの、僅《わず》か三年足らずで女房は出て行ってしまったこと。様々な事情が六助に前途を悲観させて、自棄《やけ》の行動を起こさせたものか。だが、六助は左官職の親方の話によれば、昔は引っ込み思案で無口な青年だったという。  伊三次は六助の生い立ちを聞かされると、気の毒に思う一方、甘えているとも思った。  この江戸には、いや、この国には親のいない者が|ごまん《ヽヽヽ》とおり、兄弟子や親方に苛められて仕事を覚えた者もまた、少なくないはずだ。現に伊三次がそうだった。  女房が出て行ったのは、六助に愛想を尽かしたからで、真面目に働いていれば、そうそう女房はそんな突飛《とつぴ》な行動に出るはずがない。  六助は所帯を持ってから、三日働けば一日休むような怠《なま》け者になった。女房がまめに内職をして暮らしの不足を補っていたからだろう。女房が働けば、男はどうしても当てにするものだが、六助は少し度が過ぎたようだ。  それに、左官職はお天道様に左右される仕事でもある。  働ける時に働いておかなければ後々困ることになる。六助もそれは十分承知していたはずなのに、女房が出ていく少し前は、月に五百文ほどの裏店《うらだな》の家賃も滞《とどこお》っていたらしい。  女房は十文、十五文と日払いで大家に届けていたようだが、六助の酒代が嵩《かさ》むので、とうとうそれもできなくなった。世間体を考える女房はとても開き直って住み続けることはできず、実家のある亀戸《かめいど》村へ帰ってしまったのだ。  女房の苦労を六助はわかっていなかった。金は天下の回り物だの、金は入る時には入る、じたばたしても始まらないなどと屁理屈を捏《こ》ねていた。女房が見兼ねて口を返せば、殴る蹴るの暴行を働いた。  だいたい、六助の屁理屈には聞いている者を辟易《へきえき》させるものがあった。いったい、いつから人の話をまともに聞かなくなったのだろうと、六助の友人、知人達は首を傾《かし》げる。  自分の理屈が、|いっとう《ヽヽヽヽ》正しくて、他を受けつけない。人に絡《から》むしつこさも相当だった。  自然、友人は六助から離れた。寂しさで酒の量ばかりが増えた。稼ぎが悪い上にその|ていたらく《ヽヽヽヽヽ》では、女房が出て行くのも無理はない。だが、六助はそれを自分のせいだとは思っていなかった。亀戸村へ行き、女房を返せとわめいた。女房の兄と諍《いさか》いになり、六助は義理の兄の頭を薪《まき》で殴りつけ怪我を負わせている。死んでも戻らないと口を返した女房も六助は半殺しの目に遭《あ》わせた。六助の勢いは、もはや止まらなかった。  亭主の言うことを聞かない女房を世話した親方も親方だと、見当違いな逆恨《さかうら》みをして、親方の家で大暴れをした。止めに入った兄弟子の腹を、積年の恨みもあって六助は匕首《あいくち》で刺している。兄弟子は多量の出血のために間もなく亡くなった。  やがて六助は罪もない人々にも狼藉《ろうぜき》を働くようになった。倖せそうな顔をしている者には、とりわけ怒りを募《つの》らせた。今の六助は|たが《ヽヽ》が外れた桶《おけ》だった。心と身体がばらばらで手のつけようがなかった。  一番残酷だったのは、泣いている赤ん坊をあやしていた母親の手から赤ん坊を奪い、堀に放り投げてしまったことだ。母親はすぐさま堀へ飛び込み、赤ん坊ともども命を落としている。そんな六助が捕まるのは時間の問題だった。すでに人相書きは方々に廻っていた。  六助を捕らえることに往生していたのは、生来の身の軽さと逃げ足の早さのためだった。  しかし、長月《ながつき》の晦日《みそか》前、深川|佐賀《さが》町の一膳めし屋で喰い逃げしようとしたのが運の尽きで、用心のために一帯を見張っていた奉行所の小者にその姿を見つけられてしまった。  追手の中には伊三次と門前仲町の岡っ引き増蔵《ますぞう》、その子分|正吉《しようきち》、京橋の岡っ引き留蔵《とめぞう》の子分|弥八《やはち》、その他に深川の鳶職《とび》の男達数人が助《すけ》っ人《と》として加わった。鳶職の男達は仕事を終え、これから仲間で一杯やるところだった。頼みもしないのに義侠心《ぎきようしん》に駆り立てられて一緒に六助の後を追ってくれたのだ。  六助は二ツ目之橋を渡り、そのまま本所|御竹蔵《おたけぐら》の方向へ進むと思いきや、辻《つじ》の前で急に東へ折れ、竪川沿いを三ツ目之橋の方向へ走り出した。 「そっちじゃねェ、こっち、こっち」  鳶職の兄貴分が弟分へ怒鳴るように言う。 「くそッ、足の早ェ野郎だ。どこまで行くつもりなんだ」  増蔵はいまいましそうに吐き捨てた。増蔵の息は上がっていた。伊三次も走り続けて吐き気を覚えていたが、そこで止まる訳にはゆかなかった。陽の目が僅かでもある内に六助を捕らえたかった。夜の闇が町を覆《おお》えば、また罪もない者が六助の毒牙《どくが》に掛かる。  目の先に六助の後ろ姿が見えたが、距離は一向に縮まらない。風を孕《はら》んだ六助の着物の背は丸い瘤《こぶ》のようだ。朝夕は冷える季節だというのに、六助の恰好《かつこう》は単衣《ひとえ》のままだった。  本所|緑《みどり》町の通りは歩く人の数も多かったが、誰も六助を止めようとする者はいなかった。  だが、緑町二丁目辺りの辻から菅笠《すげがさ》の武士らしい男がすっと出て来て六助と鉢合《はちあ》わせになった。その男が六助の襟首《えりくび》を掴《つか》んだのは、六助が詫《わ》びの言葉もなしに先を急ごうとしたからだろう。 「その男、捕まえてくれ、お尋ね者だ!」  弥八が怒鳴った。弥八は伊三次とともに増蔵の助っ人をするつもりで、この二、三日、深川に出張《でば》って来ていた。  弥八の言葉に、菅笠の男はつかの間、六助と追手を交互に見た。焦る六助は男の臑《すね》を蹴って振り切ろうとした。しかし、六助の襟首から離れた男の手は、すばやくその胸倉を掴み、いきなり柔術の背負い投げをするような恰好で六助を地面に叩きつけ、そのまま押さえ込んだ。  六助は身動きできないまま「畜生、畜生」と吠えた。  追い着いた弥八が六助に縄を掛けると、追手は一様に安堵の吐息をついた。 「お武家様、ありがとうございやす。こいつは世間を騒がせている|ろくでなし《ヽヽヽヽヽ》の六でさァ。ようやくお縄にできやした。お武家様のお蔭でございやす」  増蔵は息を調《ととの》えて、礼を述べた。男は袴《はかま》の埃《ほこり》を払いながら「いや、なに」と、照れたように応えた。立ち上がった男は結構な体格だった。六尺、いや、もっとあるかも知れない。  厚い胸は長年、武芸の修業を積んでいることが察せられた。それにしては着物も袴も古びていて、所々、継《つ》ぎが当たっているのも目につく。浪人だろうかと伊三次は思った。 「お武家様、よろしければお名前をお聞かせ下せェやし。八丁堀の旦那に知らせやす」  増蔵は如才《じよさい》ない口調で続けた。 「わ、わしか? 名乗るほどの者ではない」  おずおずと応えた。 「いや、それでも八丁堀の旦那に訊《たず》ねられて名前も知らねェでは済まされやせん」  増蔵の言葉に男はようやく「陸奥国弘前藩《むつのくにひろさきはん》、津軽様に奉公しておる田口五太夫《たぐちごだゆう》と申す」と応えた。 「田口様でいらっしゃいやすか。いずれ改めましてお礼を申し上げてェと思いやす」 「そ、それには及ばぬ。では、先を急ぐのでごめん」  男はそう言って竪川沿いを三ツ目之橋の方向へ去って行った。弥八は六助を引き立てた。 「たかが十六文の飯を喰ったぐれェで何んだ。そんなもん、ちょいと左官の鏝《こて》を使えばすぐに払ってやらァ」  六助は性懲《しようこ》りもなくわめいた。 「あいにく、お前《め》ェのような悪党は誰も雇《やと》わねェの」  弥八は六助に憎まれ口を利《き》いた。その拍子に、|とッ《ヽヽ》と六助は唾《つば》を引っ掛けた。 「あ、こいつ、汚《きた》ねッ」  弥八は顔をしかめて袖で拭《ぬぐ》った。鳶職の兄貴分らしいのが業を煮やして六助の尻を蹴った。 「こら、手前ェ、簀巻《すま》きにして大川に放り込んでやるか」  増蔵が慌てて頭に血が昇っている兄貴分を制した。 「兄さん、後はこっちに任せてくんねェ。どの道、こいつの命はねェも同然だからな」 「へッ、喰い逃げで命を取られるのけェ。お上《かみ》のやることにゃ、ついていけねェなァ」  六助は、しゃらりと続ける。その拍子に増蔵の顔に朱《しゆ》が差した。 「手前ェ、たかが喰い逃げで死罪になると思っているのか。胸に手を当てて、ようく考えてみな。手前ェは蠅《はえ》でも追い払うように罪もねェ人の命を奪ったんだろうが」 「親分、証拠があるのけェ。あるんなら出してみな」 「手前ェの面《つら》が死ぬまで忘れられねェ者は両手の指に足りねェぐらいいるわ。いい加減、神妙にすることだ。わかったか、この蛆虫《うじむし》!」 「………」 「んだな」  黙った六助に弥八が代わりに応えた。六助はまた唾を引っ掛けようとしたが、今度は敏捷《びんしよう》に避けた。 「引き廻しの時ァ、豪気に木遣《きや》りを唸《うな》ってやるぜ。様《ざま》ァ、見さらせだ」  鳶職の兄貴分が捨《す》て台詞《ぜりふ》を吐いた。 「おう、楽しみに待ってるぜ」  六助の悪態《あくたい》はやまなかった。 「この野郎、言わせておけば……」  六助を取り囲んでいる鳶職連中の輪が狭《せば》まった。ただでは置かないという不穏《ふおん》な空気にもなった。増蔵はそれを敏感に察して、「あんた等も引き上げてくんな」と、ぺこりと頭を下げて連中をいなした。 「こんな野郎を見ると反吐《へど》が出るわ。朝までやけ酒だァな」  兄貴分は、いかにもいまいましそうだった。  増蔵は着物の袖を探って、商家から貰ったお捻《ひね》りを出すと、兄貴分の手に握らせ、「少ねェが酒手《さかて》の足しにしてくれ」と言い添えた。 「親分、ありがたく頂戴致しやす」  途端に兄貴分は相好《そうごう》を崩した。 「親分、おれにも一杯|奢《おご》ってくんねェ」  調子に乗った六助に増蔵は返事をしなかった。      二  八丁堀、亀島《かめしま》町の不破友之進《ふわとものしん》の組屋敷で、いっとう早起きなのは娘の茜《あかね》である。|はいはい《ヽヽヽヽ》ができるようになった茜は、眼を覚ますと蒲団から抜け出し、眠っている不破の頬を叩いたり、鼻の穴に指を突っ込んだりして悪戯《いたずら》を始める。  傍《そば》にあるものを何んでも口に入れるので目離しもできない。一度、莨《たばこ》の刻《きざ》みを口に入れて家中、大慌てになってから、不破は枕許で煙管《きせる》を使うことができなくなった。  茜のはいはいの速度は相当なもので、この頃は掴まり立ちもする。その様子では、年内には歩き出すだろうと女中の|おたつ《ヽヽヽ》は言う。  龍之介《りゆうのすけ》と比べて茜の成長は早いようだ。  茜は気に入らないことがあると奇声を発して抵抗する。伊三次も半年ほど遅く生まれた息子と茜をつい比べてしまう。息子の伊与太《いよた》は茜よりずい分、おとなしい子供に思えた。  この頃の不破はそんな茜のせいで早起きである。伊三次が髪をやりに訪れると、すでに起きて待っていることが多かった。以前なら妻の|いなみ《ヽヽヽ》に何度か声を掛けられて、ようやく起き上がったものだ。 「この頃は風も冷えてきやしたね」  伊三次は不破の髪を梳《す》きながら言った。 「また、いやな季節が巡って来るわ。これから大晦日に掛けて、金に詰まった奴らが首を縊《くく》るわ、大店《おおだな》に押し込みに入るわと物騒なことが続くだろうよ」 「さいですね」 「伊与太は風邪を引いていねェか」 「お蔭様で、今のところは元気にしておりやす。しかし、茜お嬢さんの元気なのには驚きやすよ」 「同じ頃に生まれたおなごの赤ん坊を見ることもあるが、うちのは桁外《けたはず》れだ。誰に似たんだか」  そう言うと、伊三次は鼻先で笑った。 「何んだ、何がおかしい」  不破はむっとして、傍の湯呑を口に運んだ。 「誰に似たもんかもあるもんじゃござんせんよ。お嬢さんは旦那と瓜《うり》二つでさァ」  濃い眉も勝ち気そうな眼も不破の引き写しだった。噂をすれば影で、縁側を這《は》うような気配がした。障子は閉じられていたが、所々、障子紙の破れが目立つ。茜の仕業《しわざ》である。おたつやいなみが修繕しても間に合わなかった。  その破れ目から着物の赤い色が見えた。 「お姫さんがおいでになりやしたぜ、旦那」  だァ、と声がした。不破は応えない。短い吐息をついただけだ。 「だァ、だァ」  茜は不破を呼んでいるつもりなのだ。 「駄目ですよ、お嬢さん。お父様は|おぐし《ヽヽヽ》をきれいにしているんですから」  おたつがやって来て、茜を抱え上げた。茜は抵抗するように大きく身体を後ろにのけぞらせた。 「海老反《えびぞ》りですぜ」  伊三次は冗談混じりに言う。 「海老反りと言えばな、あのろくでなしには、ほとほと往生したわな」  途端に不破は六助のことを思い出したらしい。六助は大番屋に連行された後、小伝馬《こでんま》町の牢に収監された。年内に処刑されることになるだろう。 「六助がどうかしやしたんで?」 「余罪を吐かせるつもりで訊《き》けば、あっさりと、ああやった、だ。何んでも彼《か》でもやっただ」 「何んですか、それ」 「どうせ死罪になるんだから、どうでもいいってことだろう」  伊三次は何んと応えてよいかわからなかった。 「奴の手に掛かった仏さんの家族を呼んで面通しさせてもな、悪びれた顔もしやしねェ。餓鬼を殺された親父が元通りにして返せとわめいてもよ、まるで手前ェに関わりのねェような面《つら》で鼻くそをほじっていたぜ」 「………」 「あれじゃ、お奉行様じゃねェが、なぶり殺しにしなけりゃ、残された家族は腹の虫が収《おさ》まらねェだろうよ。ところが、しぶとい野郎で素直に言うことを聞かねェ。石抱《いしだ》きしようが海老責めしようがだ」 「平気な顔をしてるんですかい」  元結《もつとい》を髷《まげ》に縛りつけながら伊三次は訊く。  茜の海老反りから不破が連想したものは、どうやら海老責めであったらしい。海老責めとは小伝馬町の牢屋敷内にある拷問蔵《ごうもんぐら》で行なわれる拷問である。胡座《あぐら》をかかせ両腕を後ろ手に縛り、首から前へ縄筋を回し、臑に絡ませ、上体を前に曲げ顎《あご》と足首を密着させるようにする。折れ曲がったような恰好が海老にたとえられるので、海老責めと呼ばれる。 「平気な訳があるもんか。鼻から血泡《ちあわ》を噴《ふ》いて気を失ったと聞いたぜ」  不破は呆れたような、感心したような顔で応えた。 「それでも素直に白状しねェということですかい」 「白状させるためじゃねェ、どれが奴の手を下した山か、はっきりさせるためだ」 「何んとも妙な下手人でさァ」  髷を調え、刷毛先《はけさき》を握り鋏《ばさみ》で揃えると、伊三次は手鏡を差し出した。不破はそれをろくに見もしないで返し、肩の手拭いを放った。 「無駄な意地を張る男だと思ったぜ。それぐらい意地が強けりゃ、何んだってできるのによ」  六助は意地の張りどころを間違えていると不破は言いたいらしい。意地のことより、伊三次は六助の手に掛かって命を落とした者の家族のことを考えていた。残された家族は六助に詫びを言って貰いたいのが本心だろう。  涙の一つもこぼして、心底、すまなかったと頭を下げてほしいのだ。「許す」という言葉にはならないだろうが、少なくとも、今のどうしようもない苛立《いらだ》ちから少しは解放されるだろう。  だが、六助は殺されてもその言葉は言うまいと伊三次は思った。死んだ者も哀れだが、残された家族もまた哀れだった。 「それからな、もう一つ妙なことがあるのよ」  向き直った不破は寝間着の前を捌《さば》いて胡座をかいた。そろそろ出仕《しゆつし》の時間が迫っていた。 「本所で六助を|とっ《ヽヽ》捕まえた侍は津軽藩に仕《つか》えていると言ったな」 「へい、わたしも確かにそう聞きやした」 「田口五太夫って侍は、いたにはいたが、病《やまい》持ちでよ、床に臥《ふ》せっている。とてもとてもお尋ね者の下手人を捕まえる元気なんざありゃしねェのよ」 「そいじゃ、あの侍《さむらい》は別人ですかい」 「そういうことになるな。何やら怪しい気もする。浪人しているなら、奉行所の管轄《かんかつ》だ。見掛けたら、ちょいと素性《すじよう》を探ってくんな」 「へい」  腑《ふ》に落ちない気がした。どうしてあの男は他人の名前をかたったのだろうか。何か訳ありの事情を抱えているのだろうか。  伊三次の脳裏には鮮やかに六助を背負い投げした男の姿が残っていた。      三  六助を捕らえてから、江戸府内に少しは平和な日々が戻っているようだった。  伊三次も仕事を終えてから、あちこち動き回ることもなく、まっすぐ家に帰り、お文《ぶん》の作った晩飯を食べながら一家|団欒《だんらん》の時間も持てるようになった。  と、思ったのもつかの間のことだった。  仕事を終えた伊三次が日本橋|佐内《さない》町の家に戻ると、お文は留守で、小僧の九兵衛《くへえ》が伊与太をおぶって子守りをしていた。 「あれ、お文はどうした」 「おかみさんは前田から急に呼び出しがあって慌てて出かけました。おいらは親方が戻るまでここにいるように言われました」 「前田」は日本橋にある芸妓《げいぎ》屋で、お文はそこから芸者として出ていた。そろそろ仕事に戻ってほしいと、前々から言われていたが、とうとうその日が来たらしい。 「そうけェ。ご苦労だったな。腹が減っただろ? もう帰っていいぜ」 「あの、おいら、おかみさんから親方と一緒に飯を喰うように言われているんですが……」  九兵衛は恨めしそうに言う。用意されている箱膳《はこぜん》にちらりと眼をやれば、魚と卵焼きがのっていた。九兵衛は卵焼きが好物だった。 「そいじゃ、ま、一緒に喰うか」  伊三次は手を洗うと九兵衛の背中から伊与太を下ろして腕に抱えた。伊与太は|にッ《ヽヽ》と笑った。その笑顔を見ると仕事の疲れも吹っ飛ぶというものだった。 「飯を食べたら湯屋に行きましょう」  九兵衛はかいがいしくお櫃《ひつ》から飯をよそいながら続ける。 「それもお文に言われたのかい」 「へい。親方の背中を擦《こす》るようにって」 「そうけェ。そいつはありがてェ。しかし、お座敷に出るんなら出ると、前もっておれに言やァいいのによ。いきなりだから慌てるぜ」 「これからもお座敷はありそうですよ」  九兵衛は上目遣《うわめづか》いに伊三次を見ながら言う。  味噌汁の実は大根の千六本。お文は大根の味噌汁が得意だ。伊三次は伊与太の口に大根を小さくしたものや、魚の身を運ぶ。伊与太も少しずつ普通の食べ物を口にするようになった。その代わり、むつきの大《ヽ》の方も一丁前に臭い。  九兵衛は嬉しそうに卵焼きを口に入れると、「おかみさんのお座敷がある時、うちのおっ母さんが伊与太|坊《ヽ》の面倒を見ることになりました」と言った。そういう根回《ねまわ》しも伊三次にはお構いなしにつけられたようだ。今まで、伊三次が家に戻れば当たり前のようにお文が「お帰り」と声を掛けてくれた暮らしも、これからはそうでなくなるようだ。銭のためなら仕方がないと思いながら、伊三次は寂しさと心細さを感じた。 「九兵衛よう、お前ェ、本当に髪結いになるのけェ?」  飯を食べながら伊三次は少し改まった顔で訊いた。九兵衛が弟子入りしてから、ゆっくりと話をしたことは一度もなかったような気がする。  九兵衛は伊三次の問い掛けに驚いたように眼を見開いた。その眼には不安そうな色もあった。 「おいらにゃ、無理ですか」 「そうじゃねェ。職人は一人前になるまでが、てェへんだからよ。辛くなって逃げ出しても、今さら新場《しんば》じゃ雇ってくれねェなあと思ってよ……」  九兵衛の父親は新場と呼ばれる魚河岸で働いていた。その縁で九兵衛も最初はそちらに奉公した。しかし、九兵衛は途中から髪結いになりたいと伊三次に弟子入りしたのだ。 「一緒に新場に奉公した奴らは半分以上が辞めました。うちのお父っつぁんなんざ、親方に拾って貰って本当によかったって言っています。親方、おいらを一人前にして下さい」  九兵衛は座り直して頭を下げた。この一年、家の雑用で扱《こ》き使っただけで、ろくに仕事も教えていなかった。後ろめたさが伊三次にあった。 「そうか。決心を固めているのか。てェしたもんだ。おれはお前ェの年頃には、とてもそんな気持ちにはなれなかったぜ。わかった。そいじゃ、明日からはそろそろ剃刀《かみそり》の使い方を教えてやるぜ」 「お、おっかねェ」  九兵衛はいきなり怖《お》じ気《け》づいた。 「何んだ、だらしがねェ」 「親方、剃刀だけは勘弁して下さい」 「あのな、髪結いが剃刀を怖がってどうするのよ」 「で、でも、もしもお客さんの面の皮に傷をつけたらと思うと生きた心地がしません」 「誰がすぐに客の顔を剃《そ》らせるか。そいつは五年も十年も先のことだ」 「よかった……」  心底安堵した様子で九兵衛はため息をついた。伊与太が魚をもっとよこせと口を開けた。 「ああ、|とと《ヽヽ》がもっと喰いてェのか。ほらよ」 「親方」 「ん?」 「おいら、髪結いになれますよね」 「それはお前ェ次第よ」 「おいら、親方が好きだから、きっと辛抱できると思います。親方は無闇《むやみ》に怒鳴らないからいい」 「怒鳴らないからか……」  伊三次はそう言いながら徒弟《とてい》時代のことをふっと思い出していた。伊三次の親方は姉のお園《その》の連れ合いで義理の兄に当たる男だった。  毎日のように怒鳴られ、殴られていた。我ながらよく辛抱したものだと思う。それと同じやり方を九兵衛にしたくはなかった。 「九兵衛、おれの使っている台箱《だいばこ》をちょいと持ってみな」  伊三次はふと思いついて九兵衛に命じた。 「へ、へい」  九兵衛は箸を置いて文机《ふづくえ》の傍にある台箱を持ち上げた。 「どうでェ、重いだろ?」 「おいら、両手じゃなきゃ持てません」 「髪結いに必要な物がこれに全部収められているんだ。これ一つでおれはどこへ行っても商売ができる。お前ェが一人前になるということは、この台箱を片手で|ひょい《ヽヽヽ》と持つことができるということよ」 「そうですね」 「修業はそれだけ時間が掛かるということだ」 「わかります」  殊勝に応えた九兵衛に伊三次は満足そうに肯《うなず》いた。 「お前ェは聞き分けがあるからいい。それに意地もそこそこあるしな」 「おいら、江戸一番の髪結いになります」 「へえ、豪気なことを言うぜ。その言葉、忘れんなよ」  それ切り、伊三次は仕事のことは仕舞いにして飯を続けた。九兵衛は少し拍子抜けしたような顔になった。 「おいら、親方に訊きたいことがあるんですけどね……」  飯茶碗に残った飯を掻き込み、茶の用意を始めながら九兵衛は言った。 「何んでェ」  縞木綿《しまもめん》の袷《あわせ》の着物は、背丈が伸びたせいで裾《すそ》が少し短く感じられた。九兵衛の母親に言って、裾丈を出して貰った方がよさそうだ。 「裏の仕事のことなんですが」 「おっと、そいつはお前ェには関わりのねェこった」  伊三次はぴしりと制した。よそでぺらぺらと伊三次が奉行所の役人の小者をしていると喋られては困る。 「すんません。おいらはただ……」  九兵衛はそれでも何か言いたげだった。 「いいか。裏の仕事のことは金輪際《こんりんざい》、人に喋っちゃならねェ」 「そいつはわかっています。誰にも喋りません。おいら、下手人のことをちょいと考えていただけです」  九兵衛はむきになって言う。 「下手人がどうかしたか」  伊与太の口に飯やお菜を入れている合間に自分も食べるのだから伊三次は落ち着かない。 「おいら今まで、悪《わ》りィことをした奴は必ず捕まるもんだと思っていたんです」 「その通りだぜ」  伊三次はあっさり応えた。眼は九兵衛ではなく伊与太に注《そそ》がれている。 「で、でも、捕まっていない下手人もいるんですよね」  伊三次は顔を上げた。九兵衛の言うことも、もっともだった。事件が十あれば、その内、二つや三つの下手人はわからない。伊三次が小者となってからも、解決されていない事件は幾つかあった。 「九兵衛、お前ェ、何が言いたい」 「お天道さんは下手人に味方することもあるのかって思うんです」  何んだ、そんなことかと伊三次は思った。  九兵衛の中にある正義感がそんな疑問を抱かせたようだ。 「お上に捕まらなくてもな、お裁きを逃れられてもな、そいつは死ぬまでびくびく暮らしているんだ。八丁堀の旦那を見かけても、自身番の前を通り掛かって岡っ引きの親分にじろりと睨まれただけでも肝《きも》を冷やしているのよ。そいつをどう思うよ」 「やですね」 「おうよ。正々堂々と大道を歩きてェじゃねェか。手前ェに落ち度がなきゃ恐ろしいことは何もありゃしねェ。人をあやめた下手人なんざ、しょっ中《ちゆう》、おっかねェ夢にうなされると聞いたこともある。だからな、やっぱり罪を犯すのはよくねェ」 「ああ、これで合点しました。親方、ありがとうございます」  九兵衛はようやく胸のつかえが下りたように無邪気な笑顔を見せた。その笑顔に伊三次も笑って応える。なりゆきで九兵衛を弟子にしたが、伊三次は案外、よい弟子に恵まれたのかも知れないと思った。  飯を終えると三人で湯屋へ行った。伊三次は伊与太を背負い、その上に|ねんねこ《ヽヽヽヽ》半纏《ばんてん》を羽織るという、様にならない恰好だった。  お文はその夜、少し酔って戻ってきた。      四  翌朝、お文は二日酔いでこめかみに頭痛膏《ずつうこう》を貼って仕事に出る伊三次を見送った。 「寝てていいんだぜ。久しぶりのお座敷でお前ェも酒を飲む加減を忘れたらしい」  伊三次はお文をねぎらうつもりで言った。  お文は|きゅっ《ヽヽヽ》と伊三次を睨んだ。 「昨夜の客はよりによって最悪だったのさ。肝《きも》が焼けて、つい酒の量が過ぎたんだ。まあ、わっちの自業自得というもんだ。お前さんに気持ちがあるんなら、少し早く帰って来ておくれ。今夜はお座敷がないから早寝をするつもりだ」 「最悪の客って、どんなふうに最悪だったのよ。お前ェに言い寄ったとか?」 「馬鹿馬鹿しい。奥方を家から追い出した話を聞かされたんだよ。くそおもしろくもねェ」 「客は侍か」 「そ、野暮な浅黄裏《あさぎうら》さ」  お文は不愉快そうに吐き捨てた。 「学者の娘で書や絵の才があったから奥方に迎えたんだろうが、ろくに亭主の機嫌も取れないってね。おもしろくなくなって追い出したらしい。堅物の奥方だったんだろう」 「堅物の奥方なら侍の家にはうってつけだろうが」 「でもさ、ようく考えると、どうも奥方の方から出て行ったふしもあるんだよ。体裁が悪いもんだから浅黄裏はそう言っていただけかも知れない」 「奥方が愛想を尽かしてか」 「ああ」 「まあ、夫婦は一緒になってみなけりゃわからねェこともあるわな」 「そうだねえ。奥方は父親が津軽様の家来に学問を教えているお人らしいから、実家に戻っても喰う心配はないだろうが」 「津軽様か……」  津軽という大名の名を聞いた時、伊三次の脳裏に浮かんだのは、やはり六助を捕らえた侍のことだった。しかし、その時は、たまたまお文の客の奥方が津軽侯に関わりがあるだけだろうとしか思っていなかった。 「浅黄裏は、この次、後添《のちぞ》えに迎えるおなごは前の奥方より|ずん《ヽヽ》と若いのにすると張り切っていた」 「それでお前ェはなおさら腹を立てたということか」 「おなごは若けりゃいいという了簡《りようけん》が気に入らねェ」  年が明けると、お文も三十の大年増である。寄る年波をお文も人並に気にしているようだ。 「桃太郎姉さんは、幾つになっても若くて|きれえ《ヽヽヽ》だぜ」  ほんのお世辞にそう言うと、お文の頬が|ぽッ《ヽヽ》と赤くなった。本当かい、と真顔で訊く。  今さらお世辞とは言えなくて、伊三次は「あい。本当も本当」と自棄《やけ》のように声を張り上げていた。  深川の木場《きば》には伊三次の客が何人かいる。  一番の贔屓《ひいき》は材木問屋の信濃屋《しなのや》の主《あるじ》である。三日に一度は通っている。午前中に信濃屋へ行って仕事をこなせばもう昼である。昼飯を馳走になってから、伊三次は外へ出た。  目の前の堀では相変わらず川並鳶《かわなみとび》が丸太の上に乗って手鉤《てかぎ》を操《あやつ》っていた。丸太の上で平衡を保っているのも修業のいることだ。  九兵衛を一人前にするには何年掛かることだろうと、ふと思った。昨夜、九兵衛から髪結い職人になる決心を聞かされてから、伊三次は改めて九兵衛を一人前にしなければならないという責任を感じ始めていたのだ。これからは九兵衛を都合よく使うばかりではいけないとも思った。  伊三次は川並鳶が働く様子を眺めながら、ゆっくりと堀沿いを門前仲町に向けて歩いた。増蔵の所へ顔を出してから他の丁場《ちようば》(得意先)を廻るつもりだった。  歩いている途中、伊三次は浪人ふうの男が川並鳶を盛んに写生しているのに気づいた。  画帖を開き、短い筆で描いている。背中からちらりと覗くと、川並鳶がまるで生きているように思えた。恰好はむさくるしいが絵の腕は達者なようだ。伊三次はそのまま、男の後ろを通り過ぎたが、半町も歩いてから突然、振り返った。  菅笠を被っていなかったので、はっきりそうだと確信は持てなかったが、六助を捕まえた男ではなかろうかと思った。しゃがんでいたので背丈の見当はつかない。しかし、伊三次に向けられていた背中は広かった。 「もし、お武家様」  伊三次は男の傍まで戻って恐る恐る声を掛けた。振り向いた男は三白眼《さんぱくがん》でじろりと伊三次を睨んだ。月代《さかやき》の毛が疎《まば》らに伸び、無精髭《ぶしようひげ》も目立つ。 「お人違いでしたらあいすみやせん。お武家様はもしや、本所の緑町辺りでお尋ね者を捕まえていただいた方じゃござんせんか。いえ、体格が似ていたものですから、もしかしたらとお声を掛けさせていただきやした」  そう言うと、男は短い吐息をついて立ち上がった。それから大きく伸びをして呻《うめ》くような声を洩らした。 「いかにも」  あっさりと応えたので伊三次は、ほっとした。 「田口五太夫様でしたね。確か、そうおっしゃいやした」 「うむ」 「ですが、奉行所の旦那が問い合わせましたところ、田口五太夫様というお人は病に臥せっているということでした」 「………」  男は居心地悪そうに唇を歪《ゆが》めている。 「別に悪いことをなすった訳じゃござんせんのに、どうして他人の名前をかたったりしたんで? わたしはこの間からお武家様のことが気になって仕方がありやせんでした」 「おぬし、髪結いか」  男は話を逸《そ》らすように訊いた。眼は伊三次の携《たずさ》えている台箱に注がれていた。 「へい。廻りの髪結いをしておりやす」 「廻り床の髪結いの中には町奉行所の御用をつとめる者もいると聞いたことがあるが、おぬしはその口か」 「まあ、そんなところです」 「一度見ただけで、すぐにわしだとわかるところはさすがだな」 「畏《おそ》れ入りやす」 「偽名を使ったのには仔細《しさい》がある。実は、わしは今、家出している身の上での、素性を知られたくなかったのよ」 「さいですか」 「田口五太夫はわしの兄上だ。わしは田口|清三郎《せいざぶろう》と申す」 「わたしは髪結いの伊三次でござんす」  伊三次も名乗ってぺこりと頭を下げた。 「おぬしの言う通り、兄上は病に臥せっておる。じゃが、兄上は長男で田口家の跡継ぎである。病が癒《い》えればお務めもできるというものだ」  口の重い男だと思っていたが、兄のことになると清三郎の口調は熱っぽくなった。伊三次は清三郎が五太夫という兄を心から慕《した》っているのだと感じた。 「お兄様の病は重いんですかい」 「なに、昔から蒲柳《ほりゆう》の質《たち》での、疲れるとすぐに熱を出すのじゃ。わしは幸い健康に恵まれた。兄上は子供の頃からわしに言うた。もっと飯を喰え、寝る時には大《だい》の字になって寝ろ、身体を鍛えろとな」 「いいお兄様でござんすね」 「ああ。わしは兄上が好きで好きでたまらぬ。道場で試合がある時、兄上は下男に背負われて応援に来たものだ。兄上はわしが勝つと喜んだ。身も世もないという態《てい》で喜んだ。わしは兄上を喜ばせたくて武芸にも励んだのだ」 「お気持ち、ようくわかりやす」 「父上がそろそろ隠居する年になると、俄《にわ》かに田口家のこれからのことが問題になった。親戚も交えて話し合った結果、兄上ではなく、このわしを田口家の跡継ぎとすることが決められたのだ。わしはそれに不服だった。順序が違うと異議を申し立てた。わしの言うことは聞き入れられなかった。わしは思い余って家を出たのじゃ」 「何んともお気の毒なことで……」  偽名を使った言い訳にしては、清三郎は自分の家の事情を詳しく喋り過ぎると思った。  胸の内にじっと思いを抱えていて、その重苦しさを晴らすように伊三次に打ち明けたのだろうか。 「ずい分、熱心に絵をお描きになっていらっしゃいましたね。武芸ばかりでなく絵の腕も達者でいらっしゃいやす」  伊三次はお世辞でもなく言った。 「わしはお人好しの男だ。兄上が喜ぶと思えば武芸にも励むし、惚れたおなごが絵や書に堪能だと知れば、そちらにも熱心となる。全体、おめでたい体質のようだ」  清三郎は自嘲的《じちようてき》に応えた。六助を捕らえたことを病持ちの兄の手柄にしようとした清三郎は確かに単純でおめでたい。そんなことをしたところで、すぐにばれるというものだ。 「お家を出なさってから、どこにお住まいですか」  伊三次はさり気なく清三郎の今の住まいに探りを入れた。 「うむ。高橋《たかばし》の近くの町道場で師範代のようなことをしておる。子供達と町人に稽古をつけておる。午後は暇になるので、散歩がてら、あちこちほっつき歩いている」 「六助をとっ捕まえた時はお兄様のお見舞いにでもいらしたんですかい」  そう言うと清三郎は|きゅっ《ヽヽヽ》とげじげじ眉を上げた。鋭いな、という声は心なしか元気がなかった。 「おぬしの言う通り、あの日はそっと兄上の見舞いをした帰りだった。その時、兄上はわしに耳よりなことを申した。巴《ともえ》殿が輿入《こしい》れ先から戻っておるようだから、お前にその気があるのなら巴殿を妻に迎えて田口の家を継げとな」 「巴様?」  初めて聞く名前に伊三次はとまどった。すると清三郎は怒ったような表情で、わしが惚れていたおなごだ、と言った。 「なるほど。そいじゃ、田口様はそのお話を聞いて、大いに迷われた訳ですね」 「ああ。どうしたらよいものかと……」  もしかしたら、お文が昨夜、お座敷で相手をした客は清三郎が思いを寄せていた女の亭主ではなかろうかと思った。そんな気がしきりにした。 「向こうさんは田口様のお気持ちを知っていなさいやすんで?」  そう訊くと清三郎は黙った。都合の悪いことにはだんまりをきめ込む男のようだ。  いつの間にか川並鳶は木場から引き上げたらしい。水を満々と張った堀には太い丸太が整然と浮かんでいるだけだった。陽射しが堀の水に反射してきらきら光っている。静かな午後のひとときである。  清三郎は一徹《いつてつ》だが不器用な男に思えた。惚れた女と一緒になりたいが、兄の立場を考えるとそうもいかない。その女が清三郎の気持ちを知っているのかどうかもわからない。伊三次はいらいらした。 「巴様はどんなお人ですか」 「うむ。優しくてのう、誰に対しても思いやりのある方だ。亡き母上によく似ている」 「そうですかい……」  清三郎は画帖を開いて女の横顔が描かれている一枚を伊三次に見せた。  涼し気な一重瞼のおとなしそうな女だった。 「この方は今どこにいらっしゃるんで?」 「緑町二丁目の実家におる。お父上は藩のお儒者をしておられる坂巻千蔭《さかまきちかげ》殿じゃ」 「坂巻様でいらっしゃいやすか」  伊三次はその名を口でなぞると、画帖の中の女にしばし見入った。清三郎はその絵をどんな思いで描いたのだろうかと思った。      五  不破友之進に田口清三郎のことは伝えたが、巴の話は、はしょった。どうせつまらない茶々《ちやちや》しか入れないだろうと思ったからだ。  不破は男女の色恋の話になると妙に照れる。  そんな男に清三郎のことなど理解できるはずもない。しかし、このままでは清三郎は、いつまでも今の暮らしから手を切れないような気がした。自分にはもはや関係のないことだと思いながら、気がつけば伊三次は清三郎のことを考えているのだった。  北町奉行所、吟味方《ぎんみかた》与力、片岡郁馬《かたおかいくま》の娘|美雨《みう》と、年番方与力、乾勘五《いぬいかんご》右衛門《えもん》の次男、監物《けんもつ》の祝言が間近に迫っていた。美雨は一人娘だったので、監物は片岡家に養子に入ることになる。祝言の日、伊三次は監物の頭をやることになった。そのために当日の他の丁場は断るつもりだった。  監物からは祝儀が出るので、その日の伊三次の稼ぎは十分である。  監物は片岡家に養子に入ると決まってから、熱心に武芸に励むようになった。それというのも、美雨が町道場で少年達に剣術を指導するほどの腕があったからだ。監物は美雨に少しでも近づきたいと心を入れ換《か》えたらしい。  久しぶりに監物と会った伊三次は、少し驚いた。顔がひと回りも小さくなっていた。突き出ていた腹も引っ込み、そのせいか男ぶりも上がって見えた。  乾家の茶の間で、伊三次は祝言の日の段取りを聞かされた。母親の初女《はつめ》は嬉しくてたまらないという様子で、横からあれこれ口を挟《はさ》む。 「監物さんの晴れ姿ですからね、どなたにも見ていただきたいものです。伊三次さん、よろしくお願い致します。男前にして下さいね」  初女は監物とよく似ていた。色白で、ふっくらとした頬をしている。気さくな人柄で伊三次にも親し気な言葉を掛ける。 「時に母上、本所の小母さんはお招きするのでしょうな。まだ招待状を届けておらぬご様子ですが」  監物はそんなことを初女に言った。途端、初女の表情が曇った。 「ええ。お呼びしたいのは山々ですが、少し迷っておるのですよ。お嬢さんが離縁されたばかりですし、わたくしがはしゃいでいるのをごらんになるのは、大層お辛いだろうと思いましてね」 「それは考え過ぎでしょう。小母さんと母上は幼なじみ。お呼びしないという訳には参りますまい」 「そうですよねえ」  それでも初女は決心のつかないような顔をしていた。 「巴さんは、今、どうしていらっしゃるのですか」  監物はふと気になったようで初女に続けた。  伊三次の胸がコツンと音を立てた。巴?  清三郎が思いを寄せていた女と同じ名である。それは偶然か。伊三次は耳をそばだてた。 「ご実家におられますよ。やはり大層、塞《ふさ》いでおられるご様子です」  初女は暗い声で応えた。 「奥様、と、巴さんとは、坂巻という名字じゃねェですか」  伊三次は早口に訊いた。 「まあ、伊三次さん、巴さんをご存じなのですか」 「いえ、わたしが|ご存じ《ヽヽヽ》なのは、その巴さんに岡惚れしている相手でさァ」  伊三次はとんちんかんな返答をした。 「どなた?」  初女は大きく眼を見開いた。伊三次は慌てて田口清三郎のことを語った。途中、監物から何度も落ち着けと注意をされた。もしかして初女から巴に清三郎の気持ちを伝えられる機会ではないかと伊三次は焦《あせ》っていた。 「田口様のお家のことは存じておりました。以前に坂巻様のお家に伺《うかが》った時、奥様もどうされるのだろうと案じておりましたもの。そうそう、その清三郎という独活《うど》の大木《たいぼく》が巴さんに思いを寄せているようなことも聞いたことがあります。巴さんがまだ輿入れなさる前だったと思いますよ。書画の師匠が同じでしたので、顔を合わせることも多かったのでしょう。巴さんが何か言葉を掛けると、その独活の大木は真っ赤になっていたとか。でも、あの方は次男坊なので、いずれ他家に養子に行くさだめでしたから、巴さんとの縁組は、できない相談というものでした。巴さんの輿入れが決まった時は、あちらはかなり落ち込んでいらしたようです」 「奥様、巴様は清三郎様のことをどんなふうに思っていなさったのかわかりやせんか」 「さあ、そこまではわたくしもわかりません。でも、独活の大木が田口様の跡継ぎとなるとしたら、これはまた事情が違って参りますね。巴さんにその気があるのなら、願ってもないお話ですよ」 「母上、ここは招待状をお届けする傍《かたわ》ら、巴さんのためにひと肌脱がれてはいかがですか」  監物の助言が舞い上がりたいほど伊三次には嬉しかった。 「問題は巴さんが何んとおっしゃるかです。本当にあの独活の大木と一緒になるお気持ちがあるのかしら」  初女は小首を傾げる。その仕種《しぐさ》は若い娘のようだった。 「母上、最前から聞き捨てならない悪口をおっしゃられておりますぞ。拙者だとて、以前はできそこないの豆腐だの、白豚《しろぶた》などと言われておったのをご存じありませぬか」 「誰がそのようなことを」  初女は顔色を変えた。伊三次は内心でひやりとした。できそこないの豆腐と言ったのは不破だった。白豚の方は知らないが。 「世間の噂です。独活の大木の御仁《ごじん》も案外、巴さんのよき伴侶になるやも知れませぬ。母上、どうか拙者からもお頼み申しまする」  監物はそう言って初女に頭を下げた。初女が「わかりました」と応えた時、伊三次の口から安堵の吐息が洩れた。 「どれ、拙者も気になるので、一つ、その独活の大木の御仁に会ってみますかな。伊三次、つき合え」 「え?」  伊三次は呆気に取られたような顔になった。  監物がそんなお節介をするとは思ってもいなかった。 「何んだ、不服なのか。お前も清三郎殿と巴さんがうまく行けばよいと思っているはずだ」 「それはそうですが」 「巴さんは思っていることを軽々しく口にする方ではない。清三郎殿もお前の話によれば口下手の男のようだ。とすれば、誰かが後押しをしなければ、まとまるものもまとまらぬ」 「お福分《ふくわ》けですね、監物さん」  初女が含み笑いをしながら口を挟んだ。祝言を前にした監物が男女の仲をとり持とうとしているのを、そんなふうにからかったのだ。  できそこないの豆腐が独活の大木の恋路の仲立ちをする──伊三次も胸の中で言えない言葉を呟いていた。  高橋近くの疋田《ひきた》道場は実用流《じつようりゆう》の平山行蔵《ひらやまぎようぞう》の弟子が開いているものだった。実用流とは実戦的な武芸を指南する流派として、最近人気が高いという。  近くに岡場所もあり、環境はあまりよいとは言えなかったが、道場の傍に近づくにつれ、気合いのこもった掛け声が通りまで聞こえた。  町道場としては建物が小さく、決して立派な造りではないものの、玄関先に並んでいた履物の数は多かった。 「結構、弟子の数は多いようですな」  監物は履物に眼を落として言う。  通り掛かった弟子の一人に「田口清三郎殿にお会いしたい」と監物は取り次ぎを頼んだ。 「田口先生は稽古中です。終わるまでお待ち下さい」と、若い弟子は事務的に応えた。 「それでは稽古が終わるまで見学してもよろしいかな。拙者は北町奉行所の者でござるが」  そう言うと、弟子は一瞬、不審そうな表情になり、「少々、お待ち下さい」と、慌てて中へ引っ込んだ。  やがて、紺の道着に袴を着けた清三郎が稽古の邪魔をされて迷惑だという顔で現れた。  だが、監物と一緒にいた伊三次を見て、おッ、と声を上げ、表情を和《やわ》らげた。 「お稽古中、あいすみやせん。こちらの旦那が是非にも田口様とお会いしたいとおっしゃったんで、急なことですがお連れ致しやした」  そう言うと、清三郎は「うむ」とぶっきらぼうに肯いた。 「拙者、北町奉行所与力見習いの乾監物と申す者。下手人の六助を捕らえるにあたり、お手前に大層なお力をいただいたこと、遅ればせながらお礼申し上げまする」  監物は膝に手を置いて丁寧に頭を下げた。 「いやいや、あの時はたまたま、なりゆきでそうなっただけのこと。もはやお気づかいなく」  清三郎は鷹揚《おうよう》に応えた。 「時に本日は坂巻巴殿について、お手前に折り入って話がござる」  監物が言った途端、清三郎の表情は凍った。  じろりと伊三次を睨んだ。 「このお喋りめ!」 「いえ、田口様、ち、違うんですよ」  伊三次は慌てて取り繕う。しかし、清三郎は聞く耳を持たぬという態度で、「それがしには巴殿について話などござらん。お引き取り願いたい」と言って、くるりと背を向け、中へ入って行ってしまった。  後に残された二人は居心地悪く顔を見合わせた。 「旦那はせっかちなんですよ」  伊三次は腹立ちまぎれに嫌味《いやみ》を言った。 「ちと、焦ったかのう。しかし、このぐらいは何んでもない。また出直すことにしよう」  監物はさして意に介するふうもなかった。      六  監物はそれからも何度か清三郎に面会を請《こ》うたようだが、清三郎の態度が軟化することはなかったらしい。初女は坂巻家を訪れ、それとなく巴と母親に清三郎のことを伝えると、二人は涙をこぼして喜んだという。  しかし、清三郎は依然として自分が田口家の当主に就《つ》くことには承服できない様子だった。一度こうだと思ったら、とことん意地を通す男だった。監物は思い余って婚約者の美雨に相談したらしい。 「向こうが意地を通すなら、こちらも意地でまいりましょうぞ」  美雨は監物に力強く言った。監物は男の意地を懸けて清三郎に剣の試合を申し込んだ。  それは二人の祝言が行なわれる三日前のことだった。しかし、そんな経緯《いきさつ》を伊三次は少しも知らなかった。もしも知っていたなら、そんな無謀《むぼう》なことはおやめなさいと言ったはずだ。  いつものように伊三次は八丁堀の不破の組屋敷に行って髭を当たり、髪を調えた。  その日は茜の声よりも長男、龍之介の興奮気味の声が耳についた。 「母上、弁当はまだでございますか。本日は忙しいのです。さっさとなさって下さい」  生意気にいなみに指図している。 「坊ちゃんはお忙しそうですね」  伊三次は不破の背中から声を掛けた。 「道場の帰りに手習所に廻るらしい。それにな、今日は道場で乾の息子が他流試合をするそうだ。奴はこの頃、腕を上げたと自慢しておるが、どうしてどうして龍之介にも及ばぬわ」  不破は小意地悪く吐き捨てた。 「え?」  思わぬことに伊三次の手がつかの間、止まった。早くしろと不破が急《せ》かした。 「で、でも、他流試合となると……旦那、大丈夫ですかい。万一のことがあったら祝言に差し支えますぜ」  そうなったら祝儀も期待できない。伊三次にとっても他人事《ひとごと》ではなかった。 「腕を折ろうが足を挫《くじ》こうが、おれは知るか。向こうが勝手にすることだ」 「で、でも……」 「父上、行って参ります」  龍之介は出かける前に不破に挨拶に来た。 「うむ」 「坊ちゃん、乾様はどなたと他流試合をなさるんで」  伊三次は気になって龍之介に訊いた。 「はい。何んでも実用流の使い手とか。かなり腕の立つ方のようです。どうしてこういうことになったのか、わたしでもよくわかりませんが、他流試合など滅多にない機会ですので、わたしも観戦させていただくことに致しました。散々な結果になって美雨先生がお臍《へそ》を曲げられないかと、それだけが心配です」  龍之介はもはや結果がわかっているようなことを言う。こうしてはいられないと思った。  監物は清三郎と手合わせするのだ。素直に話を聞こうとしない清三郎に業を煮やし、そういう手段に出たようだ。 「何んだ、お前も見物に行くのかい」  不破がからかうように伊三次に訊く。 「わたしのような町人でも見物できやすかい」  伊三次は不破ではなく龍之介の顔を見た。 「見世物ではありません。見物などという言い方はしないで下さい。わが日川《ひかわ》道場は身分にかかわらず門弟が集まっております。試合の観戦もお構いなしです。それでは、わたしはこれで」  龍之介は軽く会釈すると玄関に向かった。  伊三次も慌てて不破の頭に|けり《ヽヽ》をつけた。 「おい、乾の息子がそんなに気になるのか」  そそくさと後片づけをする伊三次に不破は怪訝《けげん》な顔で訊く。 「乾様のお相手は田口様だと当たりをつけておりやす」 「田口?」 「六助をとっ捕まえた侍ですよ。これには色々、仔細があるんです」  そう言うと、伊三次は庭先から外へ飛び出していた。      七  京橋の日川道場の出入り口で伊三次は気後れを覚えた。観戦はお構いなしだと言われたが、中へ入って行くのは、皆、奉行所の息子達や、どこかの藩の家臣ばかりである。台箱を提げた髪結いなど場違いも甚《はなは》だしい。龍之介でも出て来ないかと待っていたが、そんな様子もなかった。伊三次は出入り口の前を所在なげに行ったり来たりした。 「伊三次さん」  いきなり自分の名を呼ばれた。顔を上げて声のした方を向くと、監物の母親が二人の連れの女とともに立っていた。 「奥様!」  伊三次は地獄で仏に逢ったような気分になった。 「あなたも試合をごらんになるのですか」 「へい」 「ほら、この方達が例の……」  初女は伊三次の傍に寄り、すばやく囁《ささや》いた。  坂巻巴とその母親だった。巴は清三郎の絵の女とは印象が違って見えた。少し陰気な感じがしたが、それは婚家から出戻っていると聞かされたせいかも知れない。伊三次は上目遣いで頭を下げると、二人もそれに応えた。  それから伊三次は三人の下僕《げぼく》のように後ろから遠慮がちに中へ入った。  道場は武者窓《むしやまど》の壁を背にして門弟達が座っていたが、少年剣士がおおかたで、大人は数えるほどしかいなかった。監物の試合など、見なくてもわかっていると欠席する者が多かったのかも知れない。  伊三次は初女達の後ろに控え目に腰を下ろした。目の前には巴のうなじがあった。時々、巴は隣りの母親に小声で囁く。あまり声が低いので伊三次には聞き取れなかった。  道場には床の間があり、そこに漢書の掛け軸が三幅掛かっていた。三方《さんぼう》にのせられた白い陶器の花入れには榊《さかき》の枝が挿《さ》し込まれている。  門弟達が座っている壁の上の武者窓から午前中の白い光が射し込んで、よく磨き込んだ道場の板の間を黒光りさせていた。その場所で、これから監物と清三郎は試合をするのだ。伊三次の胸は期待と興奮で震えた。  やがて道場主の日川|大膳《たいぜん》が現れると、僅かにざわめいていた道場内は水を打ったように静まった。大膳の後から袴姿の美雨と師範代の伊能甚左衛門《いのうじんざえもん》が続く。大膳は床の間を背にして座ったが、美雨と甚左衛門は大膳の横に立ち、これから試合を行なう監物と清三郎を迎える姿勢をとった。二人の手には紅白の旗が握られていた。  監物がせかせかした足取りで入って来た。  身拵《みごしら》えは十分である。それに対し、後から続いた清三郎の方は、いつもの普段着の袖を襷《たすき》で括《くく》っただけだった。背中の襷を交差したところに赤い切れ端がついている。清三郎は赤、監物は白という訳だ。 「位置について」  甚左衛門が声を掛けると、二人は大膳に一礼して、それから振り向いて門弟達に頭を下げた。美雨は門弟達の前を横切り、床の間と反対側の壁の前にそっと移動した。甚左衛門は大膳の前にすっと立った。 「始め!」  甚左衛門の合図とともに監物は奇声を発して清三郎に突っ込んだが、呆気なく躱《かわ》され、監物の竹刀《しない》は大膳の膝元に転がった。  道場内に苦笑とも取れるようなため息が聞こえた。初女は恥ずかしさに俯《うつむ》いた。 「所詮、お稽古ですから」  巴の母親が慰めている。 「まだまだ」  監物は元気だけはよい。美雨は何を思っているのか全く無表情である。  何度仕切り直しをしても、監物は清三郎の隙《すき》を突くことはできなかった。しかし、「参りました」という言葉は出ない。まるでそれは試合ではなく、師匠から稽古をつけて貰っている弟子の感じだった。監物は肩で息をし始めた。一方、清三郎は最初と少しも変わっていない。 「まだ、続けるのでござるか」  仕舞いに清三郎はそんなことを言った。 「無礼者! 試合の途中でそのような暴言を吐くとは不届《ふとど》き至極《しごく》。乾監物殿はわたくしの夫となる方でござる。夫の恥はわたくしの恥。代わって、わたくしがお手合わせ致しまする」  突然、美雨の凜《りん》とした声が響いた。 「美雨殿、それはなりませぬ。これは拙者の試合でござる」  監物は荒い息をしながらも言った。 「ええい、もう勝負はついておる。これ以上は無駄というもの」  いら立った美雨の声が監物に降る。龍之介の座っている方から、あろうことか拍手が起きた。  大膳はその時だけ「静かに」ときつい声で制した。  清三郎が短い舌打ちをして何気なくこちらを向いた。伊三次と眼が合うと皮肉な笑みを洩《も》らした。だが、次の瞬間、清三郎の表情が変わった。巴に気づいたのだ。  うろたえていると伊三次は思った。  だから、美雨がうっぷんを晴らすように激しく清三郎に打ち込んで行った時、清三郎は美雨の勢いに押され気味に見えた。清三郎は試合に集中できずにいた。  美雨は果敢に攻める。体格も腕も清三郎の方が勝《まさ》っているはずなのに、動揺が清三郎から冷静さを失わせていた。試合の流れは美雨に傾いていた。  美雨の鋭い気合いが弾けた瞬間、清三郎の胴に美雨の竹刀が入った。伊能甚左衛門が白旗を上げた。美雨はどうだと言わんばかりに顎を上げて清三郎を睨んだ。清三郎は俯いて「参りました」と低く応えた。  気がつけば巴が手巾《しゆきん》で眼を押さえている。「美雨様は健気《けなげ》な方ですね、お母様」という声が聞こえた。監物に代わって敵《かたき》を取った美雨に感動しているようだった。それでは、清三郎の立場がないではないかと、伊三次は俄かに心配になった。  清三郎は一礼して無言で道場を出て行こうとした。 「お待ち下され」  美雨の言葉が覆い被《かぶ》さった。 「武士の約束事、しかと果たしていただきますぞ」  美雨は鬼の首でも取ったように清三郎に言い放った。  監物と美雨の祝言の日は、幸い、朝からよい天気だった。乾家を訪れた伊三次は監物の髭を丁寧に当たり、髪を調えた。祝言であるので、特にこの日は元結も装飾用の幅広のものを用いる。初女は「まるで芝居の役者のよう」と親馬鹿な言葉を洩らして伊三次の苦笑を誘った。  監物は清三郎との試合で腰を痛めたらしく、身体を動かす度に「イテテ」と呻いた。 「大丈夫ですかい。今夜は大事なお床入りがあるんですぜ」 「まあ、何んとかなるだろう」  照れ臭そうに笑う。 「しかし、美雨様の腕があれほどだったとは思いも寄りませんでした。旦那、美雨様がお傍におれば鬼に金棒ですね」 「あの試合で拙者は大いに男を下げたが、巴さんのためならば致し方ござらん。美雨殿も拙者の心意気だけは買って下さった」 「途中から美雨様と交代することは前々から決めていらしたんですかい」 「いや。拙者は何があっても降参だけはするまいと心に誓っていただけだ。その内に独活の大木も痺《しび》れを切らして隙を見せるだろうと思っての」 「痺れを切らしたのは美雨様だったということですね」 「そういうことだ」  情けない顔で笑った監物の顔が歪んだ。また痛みに襲われたらしい。髪ができ上がると監物は初女に手伝われて裃《かみしも》を着けた。  仕度を終えた時、お世辞でもなく監物の姿は凜々《りり》しく見えた。 「旦那、おめでとう存じやす。ご立派ですぜ」  思わず感歎の声が伊三次の口から出た。初女はもう涙ぐんでいる。 「お前にも色々世話になったな。これからもよろしく頼むぞ」 「へい」  これから、監物は片岡家へ向かう前に親兄弟と挨拶を交わすという。伊三次は初女から祝儀袋を渡されると、邪魔をしないように、そっと裏口から外へ出た。  眩しい陽射しが降り注いでいる。祝言にはまことにふさわしい日になったと改めて思う。  佐内町に戻りながら、巴の言葉を伊三次は思い出していた。 『わたくしは離縁されて実家に戻された女です。清三郎様の妻になる資格のない女です。でも、清三郎様はわたくしの姿をごらんになって、ひどく動揺され、試合に負けてしまわれた。わたくしの何がそれほどあの方のお心を乱すのでしょうか』 (それはね、巴様、心底惚れているからですよ。惚れるというのは理屈じゃねェんです。  この世にこの女しかいねェとなったら男は命がけですぜ。監物様をごらんなさい。剣の腕は美雨様の足許にも及ばなくても、少しでも近づこうと努力なさいやした。それが美雨様に通じたんですぜ。巴様、どうか田口様と一緒になり、お家を守《も》り立てて下せェ。きっと田口様のお兄様も喜んで下さるはずだ。武士の意地もわかりやすが、これも世の中でさァ。何んでも彼《か》でも手前ェの思い通りにはいかねェとおっしゃって下せェやし)  伊三次はしかし、そんなことは巴に言わなかった。言えなかった。ほろほろと泣く巴の傍で、清三郎が三白眼をきょろきょろさせて落ち着かない表情をしているのを黙って見ているばかりだった。  八丁堀は秋も深まり、冬の足音がそろそろ聞こえそうだ。  午後から何もしなくていい日だった。九兵衛に剃刀の研ぎ方でも教えるかという気になっていた。  海賊《かいぞく》橋を渡る伊三次の背を晩秋の陽射しが照らす。陽射しを受けた伊三次の背はいつまでも暖かかった。 [#改ページ]   八丁堀純情派      一  唐の影響を受けた造りの蓬莱台《ほうらいだい》には盆栽のような松の樹《き》が中央に重々しく置かれていた。  松の横には梅の枝が挿《さ》し込まれ、根方《ねかた》は細かい笹竹で覆《おお》われている。手前には鶴と亀の細工物。さらに平安絵巻にでも登場するような翁《おきな》と媼《おうな》の人形もあしらわれていた。翁は竹箒《たけぼうき》、媼は熊手を持っている。翁は竹箒を持たない方の手を額にかざし、遠くを眺めるような仕種《しぐさ》をしていた。  松竹梅、鶴亀、長寿の翁と媼。蓬莱台は、おめでたい儀式には欠くことのできない飾り物だった。  中国|神仙《しんせん》思想の三神山の一つに蓬莱山がある。言わば想像上の山だ。そこには黄金や銀で作られた宮殿が建っており、周りは実をつける樹木の林が拡《ひろ》がっているという。さらにその実を食べると不老不死を得ると伝えられていた。  不破龍之介《ふわりゆうのすけ》は蓬莱台の意匠《いしよう》が興味深く、じっと見つめていた。これから行なわれる儀式の緊張が、それを見つめることで少し和《やわ》らぐような気がした。  前髪《まえがみ》を落とす──ただそれだけのことに、どうしてこうまで緊張しなければならないのだろうと、龍之介は自分の気持ちを訝《いぶか》っていた。  龍之介はつかの間、切腹の沙汰《さた》を受けた武士のような気持ちになった。もちろん、その時、蓬莱台は目の前にない。あるのは三方《さんぼう》にのせられた短刀だけだ。三方を後ろに回して、やおら短刀を左の脇腹に突っ込み、真一文字に横へ引く。それから上に引き上げる。  その瞬間、介錯人《かいしやくにん》が首を刎《は》ねる。どっと身体が前のめりになる──。 「それではこれから不破龍之介君の元服の儀を執《と》り行なうことに致しまする」  吟味方《ぎんみかた》与力、片岡郁馬《かたおかいくま》が声を掛けた。龍之介は、夢から覚めたように、はっと顔を上げた。一礼して、「よろしくお願い申し上げまする」と、慌《あわ》てて応えた。片岡郁馬は龍之介の烏帽子《えぼし》親で、元服の儀の介添え人だった。  師走に入った早々の二日に奉行所より申し渡し書が不破家に届けられた。それには、かねてよりの願い通り、北町奉行所|定町廻《じようまちまわ》り同心、不破|友之進《とものしん》実子、不破龍之介改め不破|龍之進《りゆうのしん》、無足《むそく》見習い仰《おお》せつけ候、とあった。まことに簡便な紙ぺら一枚で龍之介の出仕《しゆつし》が決まったのだった。それに対し、父親が自分のために奉行所に差し出した書類は不破家の由緒書《ゆいしよがき》、親類書、切支丹宗門改《きりしたんしゆうもんあらた》め証文と嵩《かさ》高かった。  ともあれ、特に不都合はなく龍之介は出仕の運びとなり、両親ばかりでなく親戚一同も大いに喜んだ。  正月の初出仕を前に、龍之介には済まさなければならないことがあった。元服である。  師走の忙しい最中《さなか》、これまた慌ただしく元服の儀式の日にちが決められたのだ。それが師走の二十六日だった。  龍之介は熨斗目《のしめ》、裃《かみしも》に威儀を正し、蓬莱台の前に座った。熨斗目も裃も父親が元服の折に身につけたものだ。それから叔父の静馬《しずま》も袖を通した。この次にこれを身につけるのは龍之介の息子になるのだろうか。とてもとても、そこまで龍之介に思いは及ばなかった。  郁馬の声で蓬莱台は郁馬の娘|美雨《みう》と女婿《むすめむこ》の監物《けんもつ》によって脇に寄せられた。その時、翁と媼が小さく揺れて、震えているようにも感じられた。  蓬莱台が届けられたのは昨夜のことだった。  稲荷《いなり》町の|どぶ店《ヽヽだな》の飾り物屋「目出度屋《めでたや》」の番頭は「へい、この度はまことにおめでとう存じます。不破様のお坊ちゃまも元服をお迎えになるとは、月日の経《た》つのは早いものでございます。こちとらが年を取るはずでございます」と、愛想笑いを貼りつかせた顔で客間に飾り物を並べた。  蓬莱台の両側には三方が置かれ、それぞれ熨斗、二尾の塩鯛がのせられた。  妹の茜《あかね》は飾り物に手を触れたくてたまらない様子だった。母親の|いなみ《ヽヽヽ》に叱られると派手な泣き声を上げた。見兼ねて下男の作蔵《さくぞう》がおぶって散歩に連れて行った。戻って来た時は眠っていた。  龍之介の父親の不破友之進は目出度屋の番頭が帰ると、蓬莱台に目を向けながら「これが吉原の女郎の身請《みう》けだったら、小判の包みも積み上げられただろうよ」と、つまらないことを言った。どうやら吉原などの遊所でも蓬莱台の出番があるようだ。  儀式には郁馬と郁馬の娘夫婦の他、叔母の|よし《ヽヽ》乃が出席した。静馬と母方の叔父の崎《き》十郎《じゆうろう》は務めがあって出席できないということだった。  無足の見習いとしては他に五名の者が決まっていた。年番方《ねんばんかた》同心橋口|忠《ちゆう》右衛門《えもん》の息子、橋口|譲太郎《じようたろう》、同じく年番方同心|春日《かすが》四方左衛門《よもざえもん》の息子、春日|太郎左衛門《たろうざえもん》、例繰方《れいくりかた》同心西尾|佐久左衛門《さくざえもん》の息子、西尾|左内《さない》、隠密廻《おんみつまわ》り同心|緑川平八郎《みどりかわへいはちろう》の息子、緑川|直衛《なおえ》、臨時廻り同心古川|庄兵衛《しようべえ》の養子、古川|喜六《きろく》である。  この内、古川喜六だけは龍之介の知らない顔だった。古川家は男子が早世して、長い間、跡継ぎがいなかった。この度、親戚の息子を養子にしたと聞いていたが、どうも親戚ではなく、庄兵衛が懇意にしていた商家の次男坊らしい。年も龍之介より三つ上の十六歳ということだった。龍之介は内心で商人の子に同心が務まるものかと怪しんでいる。  女中の|おたつ《ヽヽヽ》が龍之介の前に脚《あし》のついた水桶を置いた。生温《なまぬる》い湯が入っている。そっと中を覗《のぞ》くと、そこには十三歳最後の少年の顔が映っていた。我ながら子供っぽい顔だと思う。前髪を落としたらどんな顔になるのか想像もできなかった。  客間の外に人の気配がした。ふと顔を上げると、出入りの髪結いの伊三次が一礼して控えめに座ったところだった。郁馬が龍之介の前髪を落としたら、後は伊三次の手で銀杏髷《いちようまげ》に結われるのだ。いつもは唇の端に笑みを湛《たた》えている男が、その時は妙に生真面目な表情をしているのがおかしかった。  監物は空咳《からせき》をしたり、洟《はな》を啜《すす》ったりして落ち着かない様子だった。横に座っている若妻の美雨が時々、詰《なじ》るように夫を見た。その日の美雨は、いつもの袴《はかま》姿ではなく、当たり前に髪を丸髷にして、紅花《べにばな》色の無地の着物を身につけていた。普段の美雨より二つ、三つ大人びて見えた。  監物は龍之介が町奉行に出仕の挨拶を済ませたら、しばらくの間、無足見習いの教育係補佐に就くようだ。監物も与力見習いという、言わば閑職《かんしよく》の立場なのでその任が回って来たらしい。剣術の腕はさっぱりだが、世情に長《た》けているので、龍之介にも学ぶべきことが多いだろうと思う。  郁馬は立ち上がり、龍之介の後ろに回ったが、次の行動に移るまでが恐ろしく長く感じられた。龍之介はまた、切腹の沙汰を受けた武士の気持ちを思った。ほんのつかの間の待機が永遠の時にも思われるのではないか。  介錯人が首を刎ねる一瞬を待つ心地はまさしくこれだろう。元服の儀式の最中に切腹の想像をするというのもおかしなものだったが。  襖《ふすま》の近くには両親が座っている。父親はいつもと変わらない表情だが、母親のいなみは切羽詰まったような顔をして、今にも泣き出す寸前の態《てい》だ。遠くで妹の茜がむずかる声も聞こえた。 「さあ……」  郁馬がようやく声を掛けた。龍之介は小さな塵取《ちりと》りのような毛受けを持つと静かに眼を閉じた。  ざりッと音がして、前髪がいっきに落とされた。毛受けに存外に重い手ごたえがあり、薄目を開けると、ひと掴みの髪の毛の束があった。黒々として気味が悪かった。郁馬は水桶の湯に手を浸し、龍之介の前髪の辺りをぴたぴたと湿らせる。それから器用な手つきで残った髪の毛を剃った。 「おめでとう存じまする」  剃り終わると郁馬は低い声で言った。龍之介は一礼した。儀式は呆気なく終わった。首を刎ねられた想像上の武士も、もはや意識はないだろう。過ぎた時は取り戻せない。前髪も、人の首も戻らない。龍之介は時の流れを、ある種の感慨を持ちながら思った。  美雨が龍之介の手から毛受けを受け取ると、目顔で腰を上げるように命じた。龍之介は客間の外に出た。叔母のよし乃は、いなみよりも先に袖口で眼を拭《ぬぐ》った。普段は陽気だが、涙もろいところのある女だった。この頃、めっきり肥えて、隣りにいた母親が小さく見えるほどだった。  伊三次が待ち構えていて、「坊ちゃん、こちらへどうぞ」と、茶の間の隅に促した。  肩に手拭いが掛けられ、そこから先は儀式でも何んでもない髪結い職人の仕事だった。  伊三次に髪を結って貰うのは、それが初めてだった。今までは、いなみに髪を結って貰うか、いなみが懇意にしている女髪結いにやって貰うかのどちらかだった。  龍之介は実際に伊三次の手が自分の頭に触れると、その手の温《ぬく》みに妙に感激した。心地よかった。それでいて手際もいい。父親が長く贔屓《ひいき》にしている理由に合点がいった。  これからは伊三次に自分の髪を結って貰えると思えば、嬉しい気持ちがこみ上げた。  だが、髪が結い上がり、手鏡を差し出された龍之介は愕然《がくぜん》とした。何んという不細工な顔だろう。のっぺりとして間が抜けている。  こんな顔で外を歩きたくなかった。 「どうしやした」  伊三次が心配そうに鏡越しに訊《き》く。 「変な顔になりました」  もっと似合う頭に結えないものかと不満が募《つの》った。 「今は仕方がありやせん。すぐに慣れやす。少しの間の辛抱ですぜ」  龍之介の心の内を読んだように言う。 「できたのかい」  父親が顔を出し、龍之介の顔を見て思わず噴《ふ》いた。 「ほら、父上もお笑いになった。この髪型が似合わないのです」 「あのな、龍之介。元服|劣《おと》りっていう文句があるのよ。前髪を落とすと、どうしても男振りが三分下がるもんだ。気にするな。おれなんざ、前髪を落とした時は押し入れに隠れて誰とも会いたくなかったもんだ」 「そうなのですか」 「お前《め》ェはまだいい方だ。ささ、皆んなが晴れ姿を見たがっているぜ。早く顔を見せてやんな」  父親は珍しく優しかった。  不破龍之介はこの日から不破龍之進と改められた。  祝儀の品は親戚ばかりでなく様々な所からも届けられた。床の間に並べられた祝儀の数々を見て、龍之介は今更ながら父親の顔の広さに驚いた。ふと蓬莱台に目を向ければ、翁も床の間の祝儀の品を感心して眺めているように見えた。      二  明けた正月の鏡開きの日、龍之介改め不破龍之進は同じく見習いで出仕する朋輩《ほうばい》達と呉服橋御門内《ごふくばしごもんうち》の北町奉行所へ罷《まか》り出た。  朋輩達とは元服後、初めて会うのだった。  しばらくは馴染まない頭が恥ずかしくて外出しなかった。他の連中も同じ気持ちだったようで、不破家のある組屋敷に訪れて来る友人はいなかった。  見習い組は控えの部屋に入れられた。これから奉行所の組頭に初出仕の挨拶をするのだ。  龍之進は、内心で奉行に拝謁《はいえつ》するものと思っていたが、無足の見習いにまで忙しい奉行が対面するものではなく、見習い同心が所属する組の組頭がその任に当たった。奉行所の同心は一番組から五番組まで分けられており、それぞれに組頭がいた。  他の与力、同心達も見習いの初出仕だからと言って、特別に考えることもなく、それぞれの詰所でいつものように仕事をしている様子だった。龍之進は玄関先で顔が合った同心に頭を下げたが、ほとんど無視されたに等しかった。  控えの間には見慣れた顔が揃っていたので、龍之進の気持ちは幾らか楽になった。  だが、橋口譲太郎は龍之進の頭を見るなり苦笑した。 「おやおや、とんだ|うらなり《ヽヽヽヽ》だのう」  譲太郎は龍之進より一歳年上であり、剣法の道場でも兄弟子に当たるので平気で辛辣《しんらつ》な言葉を吐く。自分も決して頭が様《さま》になっているという訳でもないのに、だ。 「放っといて下さい」  龍之進はむっとして口を返した。 「武者人形のように凜々《りり》しい顔立ちも、こうなると形なしだな」  春日太郎左衛門も龍之進の月代《さかやき》の辺りをぺたぺた叩いた。龍之進は邪険にその手を払った。太郎左衛門は大人びた顔をしているので、前髪頭よりも銀杏髷の方が似合うような気がした。 「からかうのはおよしなさい。皆、同じ穴の|むじな《ヽヽヽ》ですぞ」  西尾左内が助け舟を出した。左内は、おでこがやけに張り出て見えた。左内は剣よりも学問に秀《ひい》でている。いずれは、もの書き同心の役目に就《つ》くのではないかと思っている。近目なので、書き物をする時は眼鏡を掛けるが、その時はしていなかった。  部屋の隅で神妙に座っているのは古川喜六だろう。喜六だけは年上のせいもあり、頭は様になっていたが、知った顔もないので心細いような表情だった。 「直衛の姿が見えんな。まさか欠席するのではあるまいな」  譲太郎は、まだ現れない直衛を心配した。 「前髪を落とした直衛を一度見た。龍之介どころの騒ぎではない。奴があれほど顔が長いとは思わなかった。おまけに顎《あご》が細いから顔の形は逆三角になってしまった」  太郎左衛門は愉快そうに言った。 「それにの、烏帽子親に付けて貰った名前が凄《すさ》まじい」  そう続けた太郎左衛門の顔を龍之進と譲太郎、左内がじっと見る。三人は期待に眼を輝かせた。皮肉屋直衛はどんな名前になったのだろう。 「いいか、聞いて驚くな。鉈五郎《なたごろう》だ」 「鉈五郎……」  龍之進は直衛の新しい名を呟いた。その後で、たまらず噴き出した。他の者も同様に声を上げて笑った。 「奴は前々から直衛という名前がおなごのようで気に入らなかったのよ。それで烏帽子親に強そうな名前にしてくれと頼んでいたらしい。しかし、よりによって鉈五郎とはな」 「直衛さんはその名前に満足しているのですか」  龍之進は気になって太郎左衛門に訊いた。 「さあな」 「ところで春日さんはどんな烏帽子名を付けられたのですか」 「おれか? おれは多聞《たもん》よ。簡単でいいだろう? おれは直衛とは逆に、長ったらしい名にうんざりしていたので、いっそさっぱりした。龍之介、お前はどうだ。祖父《じい》様の名前でも貰ったか」 「いえ、わたしは父上に倣《なら》って龍之進と改めました。橋口さんは?」 「おれも龍之介と同じで譲之進よ」 「わたしは左内そのままです」  左内が口を挟《はさ》んだ。 「西尾さん以外、慣れるまで大変ですね」  龍之進は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて言った。全くだ、譲之進と多聞が口を揃えた。 「拙者は古川喜六と申しまする。よろしくお願い致しまする」  突然、殊勝に座っているとばかり思っていた喜六が甲高い声を上げた。四人は振り返って喜六を見た。喜六は上気した表情をしていた。声を掛ける機会を待っていたのだろう。 「古川さんのお家に養子に入られた方ですね。拙者は不破龍之進と申します。こちらこそ、よろしくお願い致します。何んでも古川さんは我等より年上と聞いておりますので、我等の知らないことがあった時は色々教えて下さい」  龍之進は如才《じよさい》なく言って、喜六に頭を下げた。他の三人もおざなりに挨拶した。 「拙者は町家暮らしをしていた男ですので武家の仕来《しき》たりには疎《うと》いところがあります。年上ということはお考えにならず、おかしい時はご遠慮なくおっしゃって下さい」  謙虚な人柄がその言葉つきから伝わってきた。喜六は優し気な顔立ちをしていた。同心になるよりも呉服屋の番頭でもする方が似合いそうな気がした。 「しかし、幾ら無足の見習いと言っても羽織なしでいいのでしょうかねえ」  左内が喜六の恰好《かつこう》を見て気がついたように口を開いた。喜六だけが着物の上に紋付羽織を重ねていたが、他は袷《あわせ》の着物に小倉《こくら》の袴という普段の恰好だったからだ。 「組頭の小関《おぜき》さんは普段着で構わないとおっしゃっておりましたからよろしいのではないですか。拙者の父上も特に何も申しておりませんでしたよ」  龍之進もそう言ったが、何やら心許《こころもと》ない気持ちになっていた。 「無足の見習いなど、奉行所ではものの数に入れておらぬゆえ、案ずることはない」  楽観主義の譲之進は意に介するふうもなかった。無足の見習いは言うまでもなく奉行所の最下位の役だ。無足という言葉通り、給金はない。これから見習い、本勤並《ほんづとめなみ》を経て本勤に至るまで決まった仕事も与えられない。本勤になるまで何年掛かることやらと龍之進は思った。将来のことを考えると途方に暮れるような気がした。  廊下から荒い足音が聞こえた。と思う間もなく緑川直衛改め鉈五郎が入って来た。 「後れを取った。あいすまん」  鉈五郎は誰にともなく言った。龍之進は鉈五郎の顔をしばし呆然となって見つめた。  多聞の言った通り、逆三角の顔になっていた。今までは前髪があったせいで、さほど気にしたことはなかったのだ。 「何を見ている。おれの顔がそれほどおかしいのか」  鉈五郎は怒気《どき》を孕《はら》ませた声で龍之進を睨んだ。 「いえ、皆さんもこの頭には落ち着かないのです。気にしないで下さい」  龍之進は取り繕《つくろ》うように応えた。 「緑川さん、拙者、古川喜六と申します。以後、よろしくお願い致します」  喜六は鉈五郎にも律儀に挨拶した。 「ほう……料理屋の息子がとうとう侍《さむらい》になったか。大した出世だの」  鉈五郎は訳知り顔で皮肉を言った。 「古川の養父《ちち》に、たってと懇願されたものですから」  喜六は俯《うつむ》きがちになって応えた。鉈五郎は鼻先で笑った。 「そうではあるまい。貴様が侍になりたいと望んでおったからだろう。そうでもなければ北辰一刀流の道場に通って目録取りになるまで修業するはずがない。あと二年も経てば念願の免許も夢ではあるまい」  喜六は図星を指されたように黙った。 「直衛さん、そんなことはどうでもいいじゃないですか。事情はどうであれ、我等は見習いとして、これから一緒にやっていく仲間ですから」  見兼ねて龍之進が助け舟を出した。 「おれはもう直衛ではない」 「そ、そうですか」 「直衛、新しい名は何んという」  譲之進がとぼけて訊く。鉈五郎は途端に黙った。 「おやあ、己《おの》れの名を忘れたのかのう。初出仕に後れを取るような男だから、ま、それも無理からぬこと」 「愚かなことを言うな。手前ェの名を忘れる者がどこの世界におる」 「ほう、それではお聞かせ下され」 「鉈五郎だ」 「|がたがた《ヽヽヽヽ》?」 「おのれ、譲太郎、ただでは置かぬ」  業《ごう》を煮やして鉈五郎は譲之進の襟《えり》を掴んだ。  今しも喧嘩になりそうだと思った途端、障子が開いて、「何をしておる」と、片岡監物の厳しい声が降った。一同は慌てて袴を捌《さば》き、正座した。 「橋口、襟許が乱れておる。直せ。よいか、奉行所内でこそ、おぬし等は無足見習いの駆け出し者だが、市中の人々にとっては町方役人の一人であるのは紛《まぎ》れもない。子供っぽい喧嘩をしている場合ではない。元服を済ませたおぬし等は、もはや立派な大人だ。そこのところ、よっく肝《きも》に銘《めい》じよ。わかったな」  滔々《とうとう》と語った監物に一同は「ははッ」と、殊勝に応えた。  それから一同は監物に促されて白州《しらす》近くの座敷で組頭の小関正《おぜきしよう》右衛門《えもん》より改めて無足見習いに抱えられたことを言い渡された。  小関は一人一人の顔を確認するように眺め、「ようよう励め」と言葉を掛けた。  小関は後を監物に任せて早々に退出したが、座敷を出る時、「こちらも六人組か」と、独り言のように呟いた。  龍之進は小関の言葉が心に引っ掛かった。こちらも六人組? 他にも六人組がいるのだろうか。それは南町奉行所の見習いのことを言っているのかと最初は思った。  その後で、鏡開きのこともあり、見習いの一同は汁粉《しるこ》を振る舞われた。  控えの間に戻ると、監物は明日からの予定を事務的に一同に伝えた。翌日は奉行所内の見学と、各部署の与力、同心との顔合わせがあった。  翌々日は午前中に監物による同心の心得の講義があり、午後からは小伝馬《こでんま》町の牢《ろう》屋敷の見学だった。午前中が講義で午後からは奉行所に関係する所の見学で日程が進められるようだ。 「片岡さん。小関さんは、こちらも六人組かとおっしゃられましたが、それはどういう意味なのでしょうか」  龍之進は監物の話の頃合《ころあい》を見て訊いた。 「小関殿は、そうおっしゃったか」 「はい。拙者は確かにお聞きしました」  龍之進が応えると、監物は短い吐息をついた。 「近頃、江戸の市中を騒がせておる連中のことを指しておるのだ」 「それが六人組なのですか」 「うむ。奴等は明け方、町木戸を乗り越え、すごい勢いで通りを抜け、ある時は永代《えいたい》橋の真ん中で朝日を拝み、ある時は上野のお山で雄叫《おたけ》びを上げ、またある時は無人の火の見|櫓《やぐら》に上り、江戸の町々を眺めて悦《えつ》に入っているということだ。役人や小者《こもの》が張り込んで捕らえようとするが、その足の速さ、機敏な動きにはお手上げの状態でおる」 「何者なのでしょうか」 「忍びの者だとか、色々言う者もいるが、一向に正体が掴めぬ。まあ、相当に修業を積んでいる連中には違いない。高い所に目標を置いているのも気になる」 「馬鹿は高い所が好きなものです」  鉈五郎が吐き捨てた。監物は咎《とが》めるような眼で鉈五郎を見た。監物は直截《ちよくせつ》な言い方を好まない。 「連中は商家を襲うとか、何か事件を起こしておりますか」  監物の小言が鉈五郎に落ちる前に龍之進は慌てて口を挟んだ。 「いや、今のところ、そのようなことはない」 「それでは連中の意図は何んでしょうか」 「わからん。だが、市中の人々は連中を本所無頼派《ほんじよぶらいは》と呼んでおる」 「本所無頼派……」  龍之進と鉈五郎の声が重なった。 「本所で連中を見掛けることが多いからだ。あるいは住まいが本所近辺にあるやも知れぬ。向こうが無頼派なら、おぬし等は何派かの。その初々《ういうい》しい顔を見れば、さしずめ純情派とも言える。八丁堀純情派だの」  監物は気の利《き》いたことを言ったつもりなのだろうが、龍之進は白けた。本所無頼派とわざわざ並べる必要は一つもないと、その時は思っていた。      三  龍之進は帰宅してから明日からの日程のことを父親に報告した。今まで見習いはそのようにして仕事を覚えていくものと龍之進は思っていたが、決してそうではなかった。  あくまでもそれは小関と監物が考えた計画であるらしい。近頃は町方役人の質の低下が市中で囁かれていた。町奉行は役宅における定例の寄合でそのことに触れ、新しく見習いで上がる者に適切な教育を施《ほどこ》し、役人としての心構えを叩き込めと命じたらしい。龍之進等は幸か不幸か、その対象となったのだ。  しかし、小関は時々様子を見に顔を出す程度で、実質的な教育係は監物になるようだ。  内容を伝えると父親は、「なかなか親切なやり方じゃねェか。お前ェ達は倖せだぜ。おれの時は監物殿のような方はいなかった」と、感心とも、皮肉とも取れるような言い方をした。 「監物さんも与力見習いのお立場なので、我々と共に一から学ぼうとされておるのでしょう」  龍之進は監物の肩を持つように言った。 「いかさまな。あれはなかなか目端《めはし》の利く男だ。いずれ片岡様の跡を継ぎ、吟味方与力として腕を振るうだろうて」 「そうですね」 「龍之進、奴に嫌われないようにしろ」  父親は早くも同心として生きる術《すべ》を龍之進にさり気なく教えていた。  ひと月後には二人ずつ組になって定廻り同心や臨時廻り同心の伴をして市中を廻る。各自身番の位置、歩く道筋を頭に叩き込む。  さらにひと月後は、見習い同心だけで上司の同心の指示の許に市中を見廻るのだ。  龍之進は本所無頼派のことが妙に気になっていた。いったいどういう連中なのだろうか。  敏捷《びんしよう》な動きをするとなれば、それほど年は喰っていないだろう。自分達とさほど年の差のない若者が龍之進の脳裏にぼんやり浮かぶ。  まだお役目に就いていない御家人や旗本の次男、三男か。冷《ひ》や飯《めし》喰いの立場ならば暇を持て余してもいよう。なまじ剣や柔《やわら》の修業をしたことが仇《あだ》となって、そのような無鉄砲な行動に走るのだろうか。  しかし、幾ら考えても龍之進には、本所無頼派なる者達の意図はわからなかった。  古川喜六は龍之進を大層頼りにしている様子だった。無足の見習いの中では龍之進が一番気安く口が利けるらしかった。奉行所への出仕も退出もほとんど一緒に行動するようになった。 「ずっと剣法の稽古をしていたようですね」  ある日、龍之進は思い切って訊いた。鉈五郎の言ったことを覚えていたからだ。 「緑川さんのおっしゃったように侍になろうと思っていた訳ではありません。この頃は商家の手代も用心のため、|やっとう《ヽヽヽヽ》の稽古に通う者が多くなりました。拙者もおもしろ半分で近所の町道場に通うようになったのです」 「古川さんのお養父《ちち》上とは、どこでお会いしたのですか」 「養父は実家の見世《みせ》のお得意様だったのです。つき合いが深まるにつれ、まるで親戚のようになりました。しかし、まさか拙者を養子に迎えるとは思いも寄りませんでした。縁とは不思議なものです」 「商家の息子も次男や三男はよそに養子に行く場合が多いものですが、古川さんの場合は変わっておりましたね。何しろ商人から武士になったのですから。さぞかし周りの世界が違って見えることでしょう」  喜六は、まず、庄兵衛の弟の養子となり、それから改めて古川家に迎えられたという。近頃はご家人株を買って武士になる町人も多いご時世なので、そのことに龍之進も特に違和感は持たなかった。 「はい。養父には昔から可愛がっていただいたので古川の家に来てからも格別問題はありませんでしたが、養母《はは》は実家の母親とは全く違っておりますので、慣れるまで大変でした。拙者は養父より、実は養母の方が怖いのです」  悪戯《いたずら》っぽく笑った喜六に龍之進も声を上げて笑った。龍之進は喜六と親しく話をするようになると、その人柄に好感を持った。喜六はどんな職業に就いても如才なくこなしていく男だと思う。龍之進に向ける眼は澄んでいた。 「そうですね、ご実家の母上は商家のお内儀。それに比べて古川さんの家の方は一応、武家の奥方ですから堅苦しいものもあるかも知れません。しかし、母親はどこの家でも同じですよ。子供のやることに何か言わなければ気が済まないのでしょう。拙者の母は、なまじ剣法の心得があるものですから、道場の紅白試合で芳《かんば》しくない結果になろうものなら、二、三日、口も利いてくれません。そうそう、拙者もこの春には古川さんに続いて目録がいただけそうです」 「やあ、それはおめでとうございます。確か鏡心明智流《きようしんめいちりゆう》とか……」 「はい。両親の流儀もそれです」 「やはり、武家の奥様ですね。女が剣法をするなど拙者には考えられません」 「片岡さんの奥様は拙者の剣の先生ですよ」 「本当ですか」  喜六はさらに驚いた顔になった。 「片岡さんの腕は失礼ながら奥様の足許にも及びませんよ」  龍之進は訳知り顔で続けた。 「それでよく奥様は祝言を承知しましたね」 「男女のことは色々あるらしいです。拙者は一向に存じませんが」  龍之進の言葉に喜六は愉快そうに笑った。 「ところで例の本所無頼派のことですが、古川さんに何か心当たりはありませんか」  龍之進は話のついでに何気なく訊いたつもりだった。しかし、喜六は唐突《とうとつ》に笑顔を消した。どうして自分に心当たりがあるのか、妙なことを言うなという表情でもあった。 「いえ、古川さんのご実家が料理茶屋と伺《うかが》いましたので、もしやそのような輩《やから》がお座敷に揚《あ》がったことはないのかと思ったまでです」  龍之進は喜六の気持ちを察して慌てて続けた。 「六人もの若者が雁首《がんくび》を並べて飲み喰いしたことはありません」  龍之進は胸の内で、「え?」と呟いた。  誰も本所無頼派の連中を若者と言っていなかった。喜六が決めつけるように言ったことが少し引っ掛かった。 「ご実家は柳橋《やなぎばし》でしたね」 「さようでございます」 「本所とは両国橋で繋《つな》がっているところだ」 「不破さん、拙者には本当に心当たりはないのです」  喜六はむきになっていた。 「龍之進と呼び捨てにして下さい。拙者は古川さんより年下ですから。拙者は古川さんの取り調べをしているつもりはありません。ただちょっと訊いただけです」 「………」 「連中は若者だと古川さんも思われているようですね」 「え?」  驚いた顔で龍之進を見る。 「さっき言いましたよ。六人もの若者が雁首揃えて飲み喰いしたことはないと」 「………」 「古川さん、本当は何か感づいていることがあるのではないですか」 「滅相《めつそう》もない」 「古川さん、ご実家にいる内なら贔屓の客について役人にあれこれ言うのは余計なことですが、今の古川さんは役人の家の跡継ぎです。下手な庇《かば》い立てはお養父上に対する裏切り行為となりましょう」  そう言うと、喜六は俯いて唇を噛み締めた。 「養父は、まだ捕り物などには手を出さず、他の者と足並を揃えることに努めよと申しました」  喜六は自分の足許に視線を落としたまま低い声で言った。 「そうですね、まずは仲間とうまくやるのが先決でしょう。まして畑違いの町方役人の家の養子となったならば」 「お先走ったり、恰好をつけるなとも申しました。思うところがあっても気軽に口にするなと。それが墓穴を掘って、所詮、町人上がりと蔑《さげす》まれることになると……」 「ですが、知っていることまで知らぬ振りをすることはないでしょう。怪しいと思うことがあるなら身近な人に言うべきです」 「………」 「心当たりがありますか」  龍之進はもう一度訊いた。 「いえ……」  喜六はやはり首を振った。 「そうですか。連中は今のところ、大した問題はありませんが、何か事を起こすのではないかと心配しております」 「何かとは?」 「怪我人が出るとか、悪くしたら死人《しびと》が出ることです」 「………」 「ま、古川さんに心当たりはないようですから、これ以上、連中の話をしても仕方がありませんが」 「龍之進さんは悪い予感がするのですか」 「少し」 「龍之進さんはお父上様が定廻りを仰せつかっておりますから、子供の頃から町方の役人がどのようなものか、よっくご存じですよね」 「そうですね。古川さんよりは知っているかも知れません。しかし、今まであまりそれを意識したことはありません。ただ……一度だけ、お務め向きのことで父上の怒りを買ったことがあります」  龍之進は視線を前に向けてそう言った。ちょうど龍之進には妙珠稲荷《みようじゆいなり》が見えていた。  龍之進の組屋敷はその先の亀島《かめしま》町にあり、喜六の組屋敷はすぐ隣りの北島《きたじま》町にあった。  妙珠稲荷が見えたから二年前のことを思い出したのかも知れない。二年前、そこで盲人の勾当《こうとう》が殺されたのだ。 「それはどんな? よろしければ聞かせて下さい」  喜六は意気込んでいた。 「殺しの下手人の見当がついていたのに父上に申し上げなかったからです。そのために思わぬほど奉行所は時間を取られてしまったのです」 「なぜ、お父上に話さなかったのですか」  喜六は龍之進より三寸ほど背が高かった。喜六は龍之進の顔を覗き込むように話を急《せ》かした。 「下手人は拙者の塾の師匠だったからです」 「………」  二年前、龍之進は論語の私塾を開いていた小泉翠湖《こいずみすいこ》の許へ通っていた。翠湖には|あぐり《ヽヽヽ》という一人娘がいた。翠湖は娘の教育に金を惜しまなかった。そのために借金が嵩み、とうとう金貸しの勾当を殺してしまったのだ。  龍之進は偶然、その現場を目撃した。龍之進が口を閉ざしていたのは師匠のためというよりあぐりのためだった。あぐりは翠湖の塾に通う弟子達のあこがれの少女で、龍之進も胸をときめかせていた一人だったからだ。あぐりに悲しい思いをさせたくなかったのが本当の理由である。だが、喜六にあぐりの話は、端折《はしよ》った。 「下手人が学問の師匠では龍之進さんが口を閉ざした気持ちもわかりますよ。師匠が縄を掛けられる姿など見たくないですからね」  あぐりを持ち出さなくても喜六は龍之進の気持ちをわかってくれたらしい。 「父上は、自分の息子が、まさか下手人を庇うとは夢にも思っていなかったのです。お奉行に面目が立たないと激怒されました。その時、拙者は切腹してお詫びしようと真剣に思いました」  切腹という言葉を口にして、龍之進は元服の儀式の時、切腹する武士のことを思った訳に合点がいった。この先、役人の道を行くからには、不始末を起こした時、切腹も辞さない覚悟でやるべきと無意識に思ったのかも知れない。 「龍之進さん、二十七日は、片岡さんは寄合があるとかで我等は非番となりますね」  喜六は、ふと思いついたように言った。 「ええ、そうですね」 「拙者、その日は実家に顔を出すつもりでおりますが、龍之進さん、よかったら拙者と一緒に柳橋に行きませんか」 「………」  どうして自分を誘うのか喜六の意図がわからなかった。 「前日の夜から泊まり込んで、翌朝は本所へ行きましょう。もしかしたら本所無頼派の連中が事を起こすかも知れません。いったいどんな連中なのか確かめたいとは思いませんか」 「我々二人だけで?」 「ええ」 「古川さん、正直に応えて下さい。連中について何か隠していることがあるのではないですか」 「隠しているように見えますか」  喜六は龍之進の視線を避けて言う。 「勘ですけどね」 「拙者も確信がある訳ではないのです。面が割れていれば何か意見も言えますが、憶測だけでものを言うのは気が引けます。ですから……」  龍之進だけは実家に誘ってもいいと言うのだろう。やはり、何か心当たりがあるようだ。 「ありがたいお誘いですが、拙者だけでは他の人に悪いでしょう。どうせなら皆んなも誘うべきです。しかし、そうなると古川さんのご実家に迷惑になりますね」  龍之進は他の連中を気遣って言った。 「拙者は緑川さんが苦手です」  喜六は観念したように言った。 「拙者だとて苦手ですよ。あいつは昔から皮肉屋直衛と呼ばれていたんです。しかし、拙者の父上とあいつの父上は親友の間柄。よろしく頼むと頭を下げられております。仲間外れにはできませんよ」  龍之進も鉈五郎を誘うのは気が進まないが、それは遊びの相談ではなく、曲がりなりにもお役目の内に入っている。無視することはできないと思った。 「わかりました。実家の見世は宴会用の大広間と小座敷が幾つかあります。皆様をお呼びするのは一向構いません。龍之進さんが緑川さんや橋口さんに口を利いて下さるのなら、拙者も実家にそのように伝えます」 「よし決まった。我等八丁堀純情派の最初の張り込みと致しましょう」  龍之進は張り切った声で言った。 「片岡さんの言葉を真《ま》に受けているのですか」  喜六は苦笑混じりに言う。 「連中に対抗するには、無足見習い組では迫力に欠けます。いえ……今、咄嗟《とつさ》に口から出ただけのことですが」 「そうですね。無足など付いては、いかにも貧乏臭い。八丁堀純情派。それで行きましょう」  喜六はようやく賛成した。  龍之進はさっそく他の四人に声を掛けた。  もちろん、異を唱える者は誰もいなかった。  もっとも、喜六の実家で一晩泊まり、ゴチにありつきたいという思いは少なからずあっただろうが。      四  柳橋の傍《そば》にある「川桝《かわます》」の二階の窓からひょいと首を伸ばせば両国橋が見えた。張り込みには、まことにうってつけの場所だった。遠目が利く。  川桝は魚料理が評判を呼んでいる見世で、龍之進達が泊まった夜も結構な客の入りだった。客は神田川に小舟を着けて川桝に揚がるのだ。  喜六の実家の母親は四十半ばであったが、商売柄、大層|垢抜《あかぬ》けた女だった。元は芸者をしていたという。龍之進は伊三次の女房が芸者だったことを思い出して、ふと喜六の母親の|おはん《ヽヽヽ》に言うと、「深川芸者の文吉《ぶんきち》姐さんですね」と、よく覚えていた。今はどうしているのかと逆に訊かれ、男の子が生まれ、時々、日本橋のお座敷に出ていると応えた。 「ご亭主と息子さんのためにがんばっているのですね」  おはんは、しみじみとした口調で応えた。自分は客の接待があるからお構いできませんがと断っていたが、座敷に運ばれた夕食は二の膳つきの豪華版で、食べ盛りの六人は大いに喜んで堪能した。  膳が下げられると蒲団が運び込まれた。  だが、同じ年頃の少年達が揃って枕を並べるのだから、すぐに眠れる訳がない。気に入らぬ同心のことを虚仮《こけ》にしたり、毎度通っていた番太《ばんた》(木戸番)の店の親父の話をして笑い合った。だから、眠りに就いたのは真夜中に近かっただろう。  龍之進は夢も見ずに眠っていたが、他人の家のせいもあってか、遠くから怒号のようなものが聞こえた時、すぐに目が覚めた。急いで起き上がり、窓の障子を開けた。何刻《なんどき》なのか見当がつかない。そこから見える大川は、まだ闇に溶けていた。空も真っ暗だった。だが、視線を向けた両国橋で蛍のように微《かす》かな灯りが揺れているのに気づいた。耳を澄ませば、「待て、この野郎ども。待ちやがれ!」という声も聞こえた。何か起きた様子である。 「古川さん、起きて下さい。両国橋で何かあったみたいですよ」  龍之進は眠っている喜六の肩を揺すった。  喜六は迷惑そうに舌打ちをしたが、起き上がって窓の傍に寄った。眠気を払うように何度も眼を擦《こす》ってから両国橋の方をじっと見た。 「あれは橋番でしょう。木戸破りかな。念のため、行ってみましょう。皆さん、起きて下さい。出動ですぞ」  喜六の声に、鉈五郎と左内、多聞はすぐさま起き上がったが、譲之進は返事をするばかりで、どうしても起きなかった。五人は仕方なく、譲之進を残して階下に向かった。  階段を下りると、寝《ね》ずの番の下男は驚いた顔をして、「どうしやした。まだ夜は明けておりやせんぜ」と喜六に言った。 「御用の向きで出かける。一人残っているが、寝かせておけ。おれ達は様子を見たら戻って来る」  喜六は下男にそう言った。下男に指図する喜六はいつもと感じが違って見えた。奉公人には命令口調で話をすることが多かったのだろう。料理茶屋の息子の貫禄があった。 「お気をつけて」  下男が開けた表戸から外へ出ると、五人は両国橋に向かって走った。  両国橋の橋番は、つくねんと橋際に立っていた。 「おい、どうした」  鉈五郎は横柄《おうへい》な態度で訊いた。年寄りの橋番は突然現れた五人に怪訝《けげん》な眼を向け、すぐには返事をしなかった。 「おれ達は怪しい者ではない。北町奉行所の見習いだ。橋から声が聞こえたのでやって来たのだ」  多聞が橋番を安心させるように口を挟んだ。 「あ、さようで。無頼派が、またぞろ何かやらかす魂胆《こんたん》をしているんでさァ」  橋番は、ようやく返事をした。 「なに、無頼派とな? して、奴等はどっちに向かった」  鉈五郎の声が尖《とが》った。  無頼派と聞いて後の四人も突如、色めき立った。 「そっちの芝居小屋の方に行きやした。奴等は舟でやって来て、橋|杭《ぐい》を伝って橋に上がったんでさァ。まるで猿《ましら》のような連中で手に負えやせん。全く、年寄りだと思って馬鹿にしやがる。これで何度目になるか数え切れねェ」  橋番は、さも肝が焼けた様子で吐き捨てるように言った。  両国広小路は芝居小屋や水茶屋が軒《のき》を連ねている。しかし、闇の中では、どこが芝居小屋なのか、全くわからない。 「奴等は確かに芝居小屋へ向かったのだな」  龍之進は確かめるように訊いた。 「へい。髪床《かみどこ》と水茶屋の後ろに、|おででこ《ヽヽヽヽ》芝居、三人兄弟芝居、こども芝居と小屋が三つ並んでいまさァ」 「よし、後はおれ達に任せろ。して、奴等の人相、風体《ふうてい》はどんなもんだ」と、鉈五郎が畳《たた》み掛けて訊いた。 「連中は、いつも袴の裾を絞って、脚絆《きやはん》、草鞋《わらじ》履きでさァ。頭巾を被《かぶ》っているので顔まではわかりやせんが」 「身拵《みごしら》え十分ということか……くそッ。行くぞ」  鉈五郎は先頭に立って走り出した。その後を龍之進が追う。 「西尾さん、足は大丈夫ですか」  走りながら龍之進は左内を振り返った。 「おれに構うな。先に行け」  息の上がった声が聞こえた。  繁華な界隈も夜明け前となれば、さすがに静まり、一つ二つ、点いている提灯《ちようちん》が、その周りだけ微かに照らしていた。だが、無頼派の連中の気配は感じられない。  奴等は、もっと遠くへ行ったのではないかと龍之進が思った途端、頭の上で「ホーホー」という声が聞こえた。  その声は次第に大きくなっていく。  明六《あけむ》つ(午前六時頃)の鐘が鳴るには、まだ間がありそうだったが、闇の濃さは先刻よりも幾分和らいだようにも感じられる。だから、連中の黒い影を龍之進の眼は僅《わず》かに捉えることができたのだろう。 「あそこだ。芝居小屋のてっぺんに上って行く」  龍之進が指差した芝居小屋は丸太で足場を組み、その外側は薦《こも》で覆われている。無頼派の連中は角《かど》の丸太に足を掛け、まるで木登りするように上っていた。てっぺんに上がった者から快哉《かいさい》を叫んでいるのだった。 「まるで鳶職《とび》だな」  鉈五郎が皮肉な調子で言った。 「おい、お前達、そんなことをして何んになる。やめろ!」  喜六が口許に両手をあてがって叫んだ。だが、連中の動きは止まらない。同じ速度、同じ動きで次々と上っていく。とうとう、六人がすべて上り切ると「ホーホー」の声は四方にこだまするように響いた。芝居小屋からも人が出て来て、「手前ェ等、ただでは済まねェぞ」と吠えた。無頼派は芝居小屋のてっぺんで綱渡りするようにくるくると歩き回り、それから四隅の丸太に持っていた縄を掛けた。  夜目にも縄の白さが際立った。 「下りるぞ。逃げ場を塞《ふさ》げ!」  鉈五郎がてきぱきと命じた。龍之進は喜六と一緒に芝居小屋の裏手に向かった。その間にも連中は、縄を器用に使って滑《すべ》るように下りてくる。 「古川さん、捕まえます」  龍之進は喜六に叫んだ。心得た、という返答があった。だが、下りて来た者の腕に手を伸ばした途端、龍之進はあっさりと振り払われた。龍之進の手に痛みと痺《しび》れが走った。  微かに触れた相手の腕は堅い筋肉で覆われていた。  間近で見た男は頭巾ですっぽりと顔を包んでいたが、底光りするような眼で喜六を見つめている。喜六はその眼にたじろいで俯いた。 「お前達には、むざむざ捕まらぬ」  こもった声が聞こえた。龍之進は怯《ひる》まず殴り掛かったが、顎に立て続けに衝撃を受け、その場に昏倒した。 「おのれ、乱暴を働くとは、ふとどき千万!」  喜六が叫んだ。 「手を出したのは、そっちが先だぜ。おれ達は、お上《かみ》に背くようなことはしておらぬ。ただちょいと、手前ェの力を試しているだけよ。わかっているじゃねェか。だからな、邪魔するな。怪我をするぜ」 「こんなことしていても何もならん」  喜六は言ったが、龍之進には取ってつけたような感じに聞こえた。 「その通り、何んにもならねェよ。だが、何んにもならねェことに意地を懸けるのは、ちょいと乙《おつ》だぜ。そうだろ、喜六」  喉の奥で不敵に笑うと、男は足早に去って行った。やはり、喜六と顔見知りの連中に違いない。 「龍之進さん、大丈夫ですか。しっかりして下さい」  喜六は龍之進の身体を抱き起こした。 「古川さん、やはり連中を知っていたのですね」  口の中に金気《かなけ》臭い唾がたまっている。どうやら殴られた時、口の中を切ったらしい。だが意識ははっきりしていた。手加減されたのかも知れない。あの男が本気で立ち向かって来たのなら、とてもこの程度では済まないだろうという気がした。 「申し訳ありません。多分、道場に一緒に通っていた連中の一人だと思いますが」 「それはいったい……」 「貧乏旗本の息子達です。学問も剣も優れているのに、未だ御番《ごばん》入り(役職に就くこと)も叶《かな》わず、鬱々《うつうつ》と日を暮らしているのです」 「それではさっそくお目付《めつけ》に申し出て、連中を処罰していただきましょう」  そう言った龍之進に喜六は短い吐息をついた。 「龍之進さん、証拠がありませんよ」 「証拠? 喜六さんが知っている人ではありませんか」  龍之進は唇を手の甲で拭って立ち上がった。  くらっと目まいがした。喜六は慌てて龍之進の腕を支えた。 「奴等は用意周到に行動しております。問い詰めても、知らぬ存ぜぬで通すでしょう。現場で生け捕りにするしかありません。しかし、それは……」  できない相談だと喜六は言いたいらしい。 「不覚を取った。逃げられた」  多聞が悔しそうに言いながら龍之進と喜六の所へやって来た。多聞の後ろで左内の肩に掴まっている鉈五郎の姿も見えた。 「緑川さん」  喜六が心配そうな顔で鉈五郎を見た。 「足を蹴られて、筋《すじ》がおかしくなった」  鉈五郎は情けない顔で言う。だが、龍之進の顔を見て、「お前もやられたか」と、嬉しそうに笑った。 「これが無足見習いの現状だな。我等は、まだまだ修業が足りぬ」  多聞は自嘲的に言った。 「絶対捕まえてやる」  鉈五郎は力んでいた。 「そうですね。捕まえるしかありませんね」  龍之進も相槌《あいづち》を打った。じわじわと悔しさが込み上げていた。 「ま、我等の当面の目標が本所無頼派なら、やる気も出るというものです。よし、八丁堀純情派の名に懸けて連中を捕らえましょう」  左内が景気をつけた。 「誰が八丁堀純情派よ」  鉈五郎が小馬鹿にしたように訊いた。 「おれ達……片岡さんが言っていたでしょう? それに龍之進も無足見習い組より、よほど気が利いた呼び方だと言っていたし……」 「全く、お前達のおめでたいのには呆れるわ。何が純情派だ。そんなものは、くそ喰らえだ。聞いてて背中が痒《かゆ》くなる」 「西尾さんは、我等の当面の目標が本所無頼派と言われたではないですか。それに緑川さんだって絶対捕まえてやると決心したではありませんか。無頼派に対抗するためにも我等は結束しなければなりません。伊達《だて》や酔狂《すいきよう》で純情派をきどる訳ではありませんよ。気に入らないのなら緑川さんが何か別の名を考えて下さい」  龍之進の言葉に鉈五郎は黙った。どうやらよい案は他に浮かばないようだ。 「わざわざ名前がいるのか?」  そんなことまで訊く。 「士気を高めるためです」 「皆んなが賛成なら、おれも敢《あ》えて反対はせんが」  鉈五郎は渋々言った。 「それでは、これで決まりですね。我等は八丁堀純情派です」  龍之進はそう言って、にッと笑った。その拍子に痛みが走り、龍之進は顔をしかめた。  明六つを知らせる鐘がようやく鳴った。 「川桝に戻って朝飯を食べましょう。橋口さんもそろそろ起きているでしょうから」  喜六が口を挟んだ。龍之進は喜六の横顔をそっと見た。喜六に早く役人|気質《かたぎ》を身につけて貰いたいと思った。世間を騒がす連中に同情は無用である。一番年上なのに、一番心許ない気がした。      五  純情派は翌々日、出仕の時刻に遅れ、監物からきついお叱りを受けた。本所無頼派の行方を探るために本所のあちこちを歩き廻り、喜六の母親の勧めもあって、つい、もうひと晩泊まった。翌朝早く川桝を出るつもりが、譲之進がぐずぐずして時間を取られてしまったのだ。 「よいか、時刻を守れない者は役人として最低である。這《は》ってでも、どうしても時刻までには奉行所に顔を出すのだ」  譲之進は後ろから小声で、「宮本武蔵は佐々木小次郎との果たし合いには遅れたよな」と、余計なことを言う。龍之進は、くすりと笑った。 「橋口、おぬしは宮本武蔵ではない」  監物は、すぐに切り返した。身体の動きは鈍いが、耳はいいようだ。 「それに、おぬしは古川の実家に泊まることを家族の者に断っていない。昨夜は、おぬしの母上が心配のあまり拙者を訪ねて参ったのだぞ。いったい、どこへ行ったのかとな。見習い組が揃って外泊するなど感心せんことだ。以後、このようなことがなきよう、くれぐれも気をつけること。よいな」  譲之進は|ばつ《ヽヽ》の悪い顔で「はい」と応えた。 「ところで、古川の実家は柳橋の料理茶屋と聞いたが、そこでおぬし等は懇親会でも開いたのか」  監物は興味深げに訊いた。見習い組の一同は居心地の悪い表情でお互いに顔を見合わせた。監物は何か悪い相談でもしていたものかと、俄《にわ》かに険しい表情になった。 「不破、正直に応えよ」  監物は龍之進に顔を向けた。 「そのう……我等は遊びに行った訳ではありません。気持ちを一つにしてお務めに励もうと誓い合ったのです」 「ほう、それは殊勝《しゆしよう》な心掛け。したが、その誓いはずい分、荒っぽいものだったようだな」 「そんなことはありません」  龍之進は、かぶりを振った。 「嘘をつくな。おぬしの顔は何んだ? 殴られた痕《あと》があるではないか。やったのは緑川か」 「片岡さん、拙者もやられた口です」  鉈五郎は膏薬《こうやく》を貼った足を慌てて見せる。 「それでは誰が乱暴を働いたのだ」  監物が訊いても誰も応えない。 「皆んなしておれを馬鹿にするのか。こんな能なしの与力見習いなどに、言っても無駄と思っているようだな」  監物はとうとう臍《へそ》を曲げてしまった。喜六が青ざめた顔で、「片岡さん、申し訳ありません。拙者、余計なことをしてしまいました。拙者は本所無頼派の張り込みをするために皆さんを誘ったのです」と、言った。  鉈五郎の舌打ちが聞こえた。監物は鉈五郎をちらりと見てから、俯いている喜六に声を掛けた。 「それで、連中の姿を見たのか」 「は、はい」  喜六は這いつくばったまま応える。 「連中の素性《すじよう》に目星はついたのか」 「それは……」  喜六はまだ連中を庇っていると龍之進は思った。 「連中は相当に腕が立ちます。それに軽業師《かるわざし》のような身のこなしをします。連中の一人が言っておりました。何もならないことに意地を懸けるのは乙だと。これまでの連中の行動は、うっぷんを晴らすだけのことのように思えました。素性は武家の次男か三男と察せられます」  龍之進は喜六の立場を考慮した言い方で監物に説明した。監物はようやく機嫌を直し、「よう言うた」と笑顔を見せた。 「相手が武家では町方役人の出る幕でもないが、連中の突飛《とつぴ》な行動は、そう長くは続くまい」  監物は訳知り顔で続けた。 「どうしてですか」  龍之進は、|つっ《ヽヽ》と膝を進めた。他の者も監物の顔をじっと見た。 「不破は連中が武家の次男か三男と当たりをつけた。冷や飯喰いだな。少し前の拙者のように」  冗談混じりの言葉にも見習い組は誰も笑わなかった。 「連中の中で、一人でも他家に養子に行ったとなれば、無頼派はそこから崩れる」  なるほど。龍之進は吐息をついた。 「しかし、片岡さん。一生、冷や飯喰いのままで終わる者もおりまする。残った奴は、それこそ意地になって、いっそう無体《むたい》な行動をするかも知れません。やはり連中から眼を離す訳には参りませぬ」  鉈五郎はすぐさま反論した。 「それはそうだ。お奉行とも相談の上、何か策《さく》を練《ね》ることに致す。しかし、おぬし達は今後、勝手な行動をしてはならぬ。逐一、拙者に報告して意見を求めること。よいな」  半刻ほど続いた説教はようやく終わった。  見習い組は連れ立って奉行所を出た。      六 「強かったよなあ、無頼派は」  多聞はため息混じりに呟いた。左内が相槌を打った。 「おれも龍之進も、歯が立たなかった。上には上があるものだ」  鉈五郎は珍しく殊勝な顔で言う。 「当たり前だ。第一、体格が違った。連中は六尺近かったぜ。ここで一番背が高いのは鉈五郎だが、せいぜい五尺四、五寸だろうが」  多聞は呆れた顔で鉈五郎を見た。呆れ顔をしょっ中《ちゆう》する男である。龍之進はくすりと笑った。だが、多聞の言うことは本当だ。龍之進はまだ、五尺そこそこしかない。 「まずは体力作りですね」  左内は張り切って言った。 「飯を喰ってやる!」  譲之進が豪語した。 「お前が何か言えた義理か。我等が無頼派を追い掛けていた頃、お前はくうくう眠っておったくせに」  多聞は、今度は譲之進に呆れた顔を向けた。 「不覚を取った」  譲之進は月代を掻きながらそう言ったので、一同は声を上げて笑った。 「体力をつけ、身体をでかくして、きっと無頼派をねじ伏せるのです。拙者は明日から出仕前に素振り三百本致します」  龍之進は堅く決心して言った。龍之進が三百なら自分は五百、いや千本と勇ましい声も上がる。喜六はその中で意気消沈しているように見えた。 「古川さん、どうかしましたか」  龍之進は心配そうに訊いた。 「拙者は……」  そう言ったきり、喜六は咽《むせ》んだ。仕舞いには声を上げて泣き出した。 「おう、料理茶屋の息子よ。町方役人は、お前には荷が勝ち過ぎるんじゃないのかい」  からかう鉈五郎を龍之進は真顔で詰《なじ》った。 「やめて下さい、緑川さん。古川さん、我等に何か隠しているのではないですか。我等は仲間です。決して古川さんの敵ではありません。おっしゃって下さい。力になります」  龍之進は喜六の腕を揺すった。 「申し訳ありません。拙者は……古川の養子となるまで無頼派の仲間でした」  左内はその途端、「ええっ?」と素頓狂《すつとんきよう》な声を上げた。他の四人は、驚きでしばらく声が出なかった。 「拙者、養父に正直に白状して、養子を解消していただきます。皆さん、お許し下さい」  喜六は地面に土下座して謝る。龍之進はそっと鉈五郎の顔を見た。鉈五郎がどう出るかで見習い組の喜六に対する気持ちは決まると思った。鉈五郎が、許せない、いやだと言えば、それで終わりのような気がした。 「緑川さん、考えを聞かせて下さい」  龍之進は低い声で言った。 「お、おれ?」 「古川さんを見習い組の仲間として認めるか、認めないかです」 「お前はどうするつもりだ」  鉈五郎は逆に訊き返した。 「拙者の気持ちは変わりません。古川さんが決心を固めて町方役人の道を選んだのですから、過ぎたことを問い詰めるつもりはありません」 「なら、おれも一緒だ。別に押し込みを働いた訳じゃなし、高い所に上って猿のように吠えたところで罪にはならん」  鉈五郎は少し矛盾する理屈を言ったが、龍之進はそこを衝《つ》かなかった。喜六を慰めるためには必要な言葉でもあったからだ。 「皆さんも、このまま古川さんを仲間として認めるのですね」  龍之進は他の者にも念を押した。後の三人は、むろんという顔で肯《うなず》いた。 「さ、古川さん、立って下さい。過ぎたことは忘れましょう」  龍之進は喜六の腕を取った。  その日、龍之進の帰宅は少し遅くなった。  あれから喜六の組屋敷に向かい、部屋で色々、話し合ったからだ。喜六の養母は五人もの友人が訪れたので驚いた顔をしたが、特に迷惑そうな様子でもなく、茶や菓子を振る舞ってくれた。  喜六が無頼派に属していたのは一年も前のことである。当初は十人ほどが参加していたという。皆、暇を持て余していた。さりとて小遣いもままならず、若さのはけ口がなかった。最初は江戸の各地にある富士塚に駆け登るという埒《らち》もないものだったが、次第に勢いが嵩《こう》じていったらしい。  無茶な行動にも、それなりに鍛錬が要る。  喜六は道場の稽古ばかりでなく、腕立て伏せ、蛙跳びなど、筋力の向上にも努めた。  また橋の欄干を歩くために平衡感覚も養わなければならなかった。試しに龍之進が、今でも芝居小屋の丸太を上ることができるのかと訊くと、喜六はあっさり、「できます」と応えた。一同は羨望の吐息をついた。  足を踏み外して骨折した者や、喜六のように養子に入る者は仲間から離れた。だが、残った者は、これでやめるとは言わなかった。  残った六人は次々と新しい目標を定め、それを実行している。たとい、それが何もならないことだとしても。  喜六は仲間への仁義のために、お目付に進言することだけは避けたいと言った。それは裏切り行為となる。彼等を捕らえるためには真正面から向き合い、正々堂々と力でねじ伏せるしかなかった。  龍之進は喜六の気持ちを受け入れた。そうだ、それしかない。八丁堀純情派は、この日、改めて決意を新たにした。本所無頼派を捕らえる。純情派だけでそれをやるのだ、と。  龍之進は自宅に戻ると、どっと疲れを覚えた。玄関の式台に腰を下ろし、しばらく立ち上がれなかった。これからのことが重くのし掛かっていた。  背中で人の気配がした。振り向くと妹の茜が、這いながらこちらにやって来るところだった。 「茜、ただ今。帰ったよ」  そう言うと、茜は白い歯を見せ、|にッ《ヽヽ》と笑った。だが、次の瞬間、茜は柱に掴まって立ち上がった。  それから覚つかない足取りで龍之進に向かって来た。 「茜、すごいぞ。それ、ここまで来てみろ」  龍之進の励ましに気をよくした茜は笑顔のまま、よちよちと歩き、とうとう龍之進の腕まで辿《たど》り着いた。 「すごい、すごい。茜は歩けるようになったんだなあ。兄さんはちっとも知らなかったぞ」  龍之進は感激のあまり、茜を抱いて揺すった。茜は悲鳴のような笑い声を立てた。  茜の笑い声が、その時の鬱陶《うつとう》しいものを、すべて吹き飛ばしたような気がした。妹は頼りになるものだと、龍之進はしみじみ思うのだった。 [#改ページ]   おんころころ……      一  舟で大川を渡っている途中、対岸の深川の町並みに薄紅《うすべに》色の桜の樹《き》が幾つも目についた。  江戸は花見の時季を迎えていた。 「満開だな」  独り言を呟《つぶや》いたつもりが、船頭が耳ざとく聞きつけ、「へえ、今年はいつもの年より早ェようですぜ」と、伊三次に応えた。その拍子に乱杭歯《らんぐいば》が剥《む》き出された。手拭いで頬被《ほおかぶ》りをしているので正確な年はわからないが、六十前後だろう。だが、艪《ろ》を操《あやつ》る技《わざ》は、まだまだしっかりしている。 「正月が終わったと思ったら、もう花見だ。うろちょろしている内に夏にならァ」  伊三次は冗談混じりに言う。船頭は、「全くで」と、相槌《あいづち》を打った。 「旦那はこれから深川で仕事ですかい」  船頭は伊三次が携《たずさ》えている台箱《だいばこ》にちらりと目をやって訊《き》いた。台箱には廻りの髪結いに必要な道具が収められている。 「ああ。木場《きば》の信濃屋《しなのや》という材木屋に行くところだ」 「そいじゃ、舟を木場へ着けやすかい」 「いいや。その前に、ちょいと門前仲町に野暮用があるんで、深川八幡の裏に着けてくれ」  信濃屋に行く前に門前仲町の自身番に寄り、その界隈を縄張にする増蔵《ますぞう》に会わなければならなかった。  冬木《ふゆき》町|寺裏《てらうら》にある仕舞屋《しもたや》で、夏でもないのに怪談話が持ち上がっていた。  何んでも、その仕舞屋に紫色の小袖を着た娘が入って行くという。ところが、仕舞屋には人が住んでおらず、不逞《ふてい》の輩《やから》の侵入を防ぐために戸締りしていた。娘が入り込める隙《すき》はないのだ。  仕舞屋の後ろは細い堀になっており、そこから通りには抜けられない。堀の向こう側は寺の塀がずっと続いて、塀越しに墓や卒塔婆《そとうば》が見えるだけだ。仕舞屋の周りは他に人家も建っていないので、雑草と笹藪《ささやぶ》が生い繁っている。見るからに寂しい場所だった。  仕舞屋の噂はそれだけではなかった。その家を借りた者が以前に三人ほどいたが、三人が三人とも家族の弔《とむら》いを出しているという。妙な噂に尾ひれがついて、ここ一年ほどは、ずっと空き家のままだった。家主《やぬし》はその家を取り壊したい様子だったが、祟《たた》りを恐れて実行できずにいた。ところが、最近になって、その仕舞屋をわざわざ借りたいという者が現れた。家主は大家を介して、増蔵にどうしたらよいものかと相談した。その家の大家を引き受けているのは、伊三次もよく知っている次郎兵衛《じろべえ》だった。  次郎兵衛は五十がらみの痩せた男で、町内の世話役だった。住まいも門前仲町の一郭《いつかく》にある。冬木町の仕舞屋は薄気味悪いので、この頃は次郎兵衛も滅多に見に行っていないということだった。  増蔵は次郎兵衛に、店子《たなこ》には仔細《しさい》を話すべきだと言った。後で苦情が来てごたごたするより、納得ずくで貸した方がいいという考えだった。次郎兵衛は仔細を話せば敬遠されるのはわかり切っているので、何んとかいい方法がないものかと悩んでいた。  とり敢えず、噂の娘の正体を突き留めることが先決だった。  伊三次にとっては、いやな仕事だった。 「船頭さん、冬木町寺裏で噂になっている娘のことは知っているかい」  伊三次は試しに船頭に訊いてみた。 「紫の着物を着ているとかいう娘ですかい」 「ああ」 「深川から乗せた客がそんなことを言っていたのを聞いたことがありやす」 「どう思う」 「どう思うって、|これ《ヽヽ》でげしょう?」  船頭は艪を漕ぐ手を止めて、胸の前で手の甲をだらりと下げた。この世の者ではないと言いたいらしい。 「お前《め》ェさんもそう思うのけェ」  伊三次は吐息混じりに言った。 「だって、いまどきの娘は紫の着物なんざ、着ませんぜ。成仏《じようぶつ》できねェ仏が迷っているとしか考えられやせん。大昔に明暦《めいれき》の大火がありやしたが、あれは死んだ娘の振袖を焼いたのが原因と聞きやした。その振袖ってのが、紫色だったんじゃねェですか。死んだ娘は三人おりやしたから、冬木町に出るのは、その内の一人なんじゃねェかと、あっしは思っておりやす」 「何んで冬木町なのよ。火元は本郷丸山《ほんごうまるやま》の本妙寺《ほんみようじ》だったろうが」  伊三次は、やや声を荒らげた。 「それもそうですね。何んで冬木町なんだろうな」  船頭は取り繕うように言って首を傾《かし》げた。  明暦の大火は伊三次も子供の頃、父親から聞いたことがある。別名、振袖火事だ。江戸の町がほとんど焦土と化してしまった未曾有《みぞう》の大火だった。  その火事には不幸な死を遂げた三人の娘の逸話が残されている。三人とも一枚の振袖で繋《つな》がれていた。  一人目の娘は上野の神商・大増屋の娘|おきく《ヽヽヽ》。おきくは一家で上野の山に花見に出かけ、美男の寺小姓を見掛け、一目惚れしてしまう。  寺小姓の着ていた衣服の色の振袖を作って貰い、寺小姓に思いを募《つの》らせていた。恋患いが嵩《こう》じて娘は床に就《つ》き、可哀想にとうとう亡くなってしまった。それが承応《じようおう》四年(一六五五)の一月のことで、おきくは十六歳だった。  おきくの両親は娘の亡骸《なきがら》とともに、その振袖を本郷丸山の本妙寺に葬った。  寺は葬儀が終わると振袖を古着屋に売り渡した。それは公然と許されている寺の役得だった。すると、今度は本郷元町の麹屋の娘のお花が、この振袖に目を留め、両親に買ってくれろとねだった。しかし、お花もまた病《やまい》を得て、おきくと同じ十六歳で亡くなってしまう。それは明暦二年(一六五六)の一月。おきくが亡くなった翌年の同月のことだ。  さらに、その振袖は麻布の質屋・伊勢屋の娘|おたつ《ヽヽヽ》の手に渡る。そしておたつも二人の娘と同じ運命を辿《たど》った。おたつは明暦三年(一六五七)の一月に亡くなった。葬られた寺も同じ本妙寺である。おたつの葬儀の時、偶然にも、おきくとお花の家族が娘の法要のために寺を訪れていた。おきくとお花の父親はおたつの棺桶に掛けられていた振袖を見て驚く。  そして、三人の娘が同じ事情で亡くなったと知ると、父親達は本妙寺の住職に仔細を話し、振袖を焼いて供養することにした。  ところが、まさに火の中へ振袖を放った瞬間、激しい風が吹き、振袖は火の粉を飛ばしながら舞い上がった。  それが死者、およそ十一万人を出す大火となってしまったのだ。  伊三次は振袖の因縁を、そのまま大火に結びつけることには無理があるような気がしていた。その振袖に魔物でもとり憑《つ》いていたというのだろうか。それでは、魔物の正体は何か。娘の報いられない思いの権化《ごんげ》か。  また、恋患いで本当に十六歳の娘が死ねるものかと疑問も湧く。伊三次は今まで、そんな|やわ《ヽヽ》な娘は一人として知らなかった。  最近になって、振袖の因縁は実は作り話だと伊三次に教える者がいた。  池之端《いけのはた》の茅《かや》町で刀剣商をしている一風堂《いつぷうどう》・越前屋の主《あるじ》である。越前屋は隠密廻《おんみつまわ》り同心、緑川平八郎《みどりかわへいはちろう》の古くからの知り合いだった。緑川は越前屋の商売を単に道具屋と呼ぶ。越前屋は、大火の火元は本妙寺に隣接していた老中・阿部|忠秋《ただあき》の屋敷だと言った。幕府の役人の屋敷が火元だと知れると、幕府の威信をなくしてしまうので、そんな作り話を拡《ひろ》めたらしい。だいたい寺小姓が紫色の衣服を着る訳がない。紫は大僧正だけに許される色だという。伊三次は、なるほどと思った。  物事の真実なんてそんなものだ。  冬木町寺裏の娘の正体にも、何か|からくり《ヽヽヽヽ》があるように思えた。もしも娘が船頭が言うように、さまよえる霊だとしたら、その時は越前屋に助《すけ》っ人《と》を頼むつもりだった。なぜなら、越前屋は霊感が強い男で、普通の人間が見えないものでも見えることがあったからだ。 「へい。お疲れ様でごぜェやす」  深川八幡裏の栄木河岸《えいきがし》に舟を着けると、船頭は慇懃《いんぎん》に頭を下げた。伊三次が決まりの手間賃を払うと、「旦那、お気をつけて」と船頭は言い添えた。  気をつけるのは足許《あしもと》のことかと思ったが、船頭は心持ち青ざめた顔で伊三次を見ている。 「何かおれの顔についているのかい」  伊三次は怪訝《けげん》な眼で船頭に訊いた。 「いえ、冬木町の娘のことには、あまり深入りなさらねェ方がいいと思いやす」 「どういう意味だ」 「何となく、いやな気がするだけでさァ」 「………」 「そいじゃ……」  船頭は伊三次に背を向け、腰の莨《たばこ》入れから煙管《きせる》を取り出した。一服しながら次の客を待つのだろう。  伊三次は吐息をつくと台箱を持ち直し、門前仲町の自身番へ歩き出した。      二  門前仲町の自身番に着くと、増蔵と次郎兵衛が伊三次を待っていた。 「こいつァ、お揃いで」  伊三次は冗談めかして言った。台箱を座敷の隅に置くと、伊三次は二人の前に腰を下ろした。 「伊三、あの幽霊屋敷の店子が決まったぜ」  増蔵は皮肉な口調で言った。 「親分、幽霊屋敷だなんて人聞きの悪い」  次郎兵衛は慌てて制した。 「仔細は話したんですかい」  伊三次は気になって次郎兵衛に訊いた。 「もちろん、話しましたよ。すると、笑い飛ばされました。この世に幽霊みたいなものはおらぬと。それはすべて人の心にある迷いから出たものだとおっしゃいました」 「ずい分、太っ腹な人だ。町人ですかい」 「いいえ、お侍《さむらい》です。でも、今は事情があって浪人をしておられるとか。懐《ふところ》に余分な物がないので店賃は勉強してほしいとおっしゃいました。もちろん、喜んで裏店並《うらだななみ》の店賃で手を打ちました」 「よかったじゃねェですか」  これでいやな仕事から逃れられたと、伊三次はほっとした。 「ところが、例の娘の噂は相変わらずだ。あっちでも、こっちでも見たと言う者が後を絶たねェ。このままにしていいものかと思案しているところだ」  増蔵は渋面を拵《こしら》えて言う。 「近所で、その娘に心当たりのある奴はいねェんですかい。生きてるにせよ、死んでるにせよ」  伊三次の言葉に次郎兵衛は恐ろしそうに首を竦《すく》めた。 「近所で心当たりは全くねェ。困ったものよ」  増蔵は言いながら首筋を掻いた。 「紫色の小袖なんざ、いまどきの娘は着ねェようですよ」  伊三次は船頭の言葉を思い出して言う。 「らしいな。うちの嬶《かか》ァもそう言っていた。とすれば……」  増蔵の視線が宙を泳いだ。 「やっぱり、|そっち《ヽヽヽ》の方ですかい」  伊三次は増蔵の気持ちを読んで訊く。 「まずな」 「しばらく様子を見やしょう。店子の浪人が、その内、何か言ってくるかも知れやせん」 「ま、そういうことにするか。大家さん、あんたも時々、様子を見に行ってくれ」 「そうですねえ」  次郎兵衛は渋々、応えた。  それで、借家の一件には|けり《ヽヽ》をつけ、伊三次は木場の信濃屋へ向かった。  信濃屋は、いつもなら主の五兵衛《ごへえ》と女房の|おとよ《ヽヽヽ》の声がかまびすしく聞こえるというのに、その日は珍しく静かだった。 「ごめんなすって」  台所から声を掛けても誰も応えない。皆、出払っているのだろうかと思った。しばらく土間に突っ立っていると、外から古参の女中の|おたみ《ヽヽヽ》が戻って来た。 「あら、伊三次さん」  おたみは近所の青物屋へ買い物に行っていたのだろう。大根と青菜を抱えていた。 「旦那はお留守ですかい。今日は髪を結う日だったと思いやすが」 「それがねえ……」  おたみは流しに青物を置くと、ばつの悪い表情になった。 「何かございやしたかい」 「もう、おおありよ。旦那様とおかみさん、とうとう別れることになるらしいの」 「え?」  驚いた。五兵衛とおとよの夫婦仲は昔から悪かったが、それにしても五兵衛は五十の半ばを過ぎている。おとよは五兵衛より三つも年上だから還暦近い。そんな年で夫婦別れしても、どうなるものでもないだろう。 「おかみさんは堪忍袋の緒を切らして、ご実家に帰ってしまったのよ。二度と戻らないと捨て台詞《ぜりふ》を残して」  おたみはため息混じりに続ける。長男が一人前になって嫁を迎え、孫も三人になった。  おとよは自分がいなくても、もう信濃屋は大丈夫と考え、実家に戻ったのだろうか。 「やっぱり、旦那の|これ《ヽヽ》が原因ですかい」  伊三次は小指を立てた。五兵衛には五年越しになる女がいた。 「まあ、それもあるけど、もともとおかみさんは、旦那様を、あまりお好きではなかったから」  おたみは視線を足許に落として言う。 「それで旦那は今、どうしていなさるんで?」 「そりゃあ、おかみさんのご実家に行って、何とか縒《よ》りを戻そうと必死ですよ。頭もね、あんまりきれいにしてると気持ちが伝わらないとおっしゃって、そそけた髪でお出ましになりましたよ。伊三次さんには無駄足になるから気の毒だとおっしゃって、ほら、手間賃は預かっておりますよ」  おたみは懐から紙に包んだものを差し出した。 「こいつァ、畏《おそ》れ入りやす」  そのまま、懐に収めようとして、ふと思いついて波銭(四文銭)を摘《つま》んでおたみに渡した。 「悪いわ、伊三次さん」  おたみは嬉しさを堪《こら》え、すまなそうな顔を拵えた。 「いえ、おたみさんには、いつもお世話になっておりやすんで、少ねェですけど」  何もせずに手間賃の三十二文を手にしたのだから、それぐらいしてもいいと思った。 「その代わりと言っちゃなんですが、ちょいとおたみさんに訊きてェことがありやす」 「何かしら。旦那様のこと?」 「いえ、冬木町寺裏辺りで噂になっている紫色の小袖を着た娘のことですよ」  伊三次は台所の板の間に台箱を置くと、遠慮がちに縁《へり》に腰を下ろした。おたみは、「お茶を淹《い》れるわね」と、愛想よく言った。波銭が効いていた。 「その話は深川で大層噂になっているから、あたしも知らない訳じゃないけど、それよりも、その娘が入って行く空き家を借りたいという人が現れたらしいじゃないですか」 「へい。浪人をしておりやすが、お侍だそうです」 「そのお侍さん、本郷の団子坂《だんござか》に住んでいる方だそうですよ」 「どうしてそれを」 「うちにいらっしゃるお客さんが旦那様に話しているのを、ちょいと小耳に挟《はさ》んだんですよ。お侍さんが住んでいる家も何やら曰《いわ》くがあって、そのお侍さんが借りるまで何人も住む人が替わったんですって。でもお侍さんは、その家に五、六年も住んでいたそうよ。例の娘の噂も、その頃からあったみたい」  団子坂は本郷にある。昔、その坂の上に団子を焼いて売る茶店があったことから、その名がついた。今は団子よりも菊人形で賑わう所である。 「その辺りは、お旗本のお屋敷が何軒かあり、町家もあるにはあるけど、大抵は百姓地と畑になっていて、お侍さんの住んでいる家も寂しい場所だそうですよ。今度の家だって、ずい分、寂しい所だって言うじゃないですか。あたし、何んだか、わざわざそんな所を選んでいるような気がするの」 「こいつは何かありそうな気がしてきたぜ。おたみさん、他に何か知っていることはありやせんか」 「そうそう、そのお侍さん、昼間は子供を集めて手習所《てならいどころ》みたいなことをしていたけれど、夜は釣りに行くそうなんですよ」 「釣り?」 「そう、竿《さお》と魚籠《びく》を下げたお侍さんを見掛けた人が多いらしいの。その割に魚が入っているのは滅多に見ないということでしたよ」 「手習いの束脩《そくしゆう》(謝礼)だけじゃ、暮らしは大変でしょう」 「そうなのよ。でもお侍さんは息子さんと二人で、案外、呑気に暮らしているそうよ。あんまり切羽詰まった様子はなかったみたい」  息子がいることをその時、初めて知った。伊三次は浪人が独り者とばかり思っていたのだ。 「何んか怪しいなあ」  伊三次は独り言のように呟き、おたみの淹れてくれた茶を飲み下した。 「それで、団子坂の家を出ることになった理由は何んですか」  冬木町寺裏の仕舞屋に移らなくても、そのまま、そこにいたらいいのにと伊三次は思う。 「ええ。もともと、あばら家だったから、家主さんが建て替えて、もっと店賃をたくさん取れる店子を探したいと思ったからだそうよ。その家の普請《ふしん》は、うちの店から品物が入るんですよ」 「なるほどねえ」 「旦那様が落ち着いたら、もっと詳しい話を聞いてみたらどう?」  おたみは流しに置いた青物を気にする様子を見せた。伊三次はそれを察して、「さいですね。そうします。そいじゃまた、近い内に寄せて貰いやす。おたみさん、ごちそうさんでございやす」と、腰を上げた。  信濃屋の材木置き場の片隅に細い桜の樹が植えられていた。その樹にも桜がびっしりと花をつけていた。だが、おとよが家を出ていると聞いたせいで、伊三次は華やかさよりも、何やら物悲しい気持ちにさせられていた。      三  信濃屋を出てから伊三次は他の丁場《ちようば》(得意先)を廻り、それから八丁堀に取って返し、奉行所を退出する不破友之進《ふわとものしん》を待って、冬木町寺裏の話を伝えた。あれこれと話が長引いて、日本橋|佐内《さない》町の家に戻ったのは、五つ(午後八時頃)過ぎになった。  お座敷に出かけているとばかり思っていたお文《ぶん》が珍しく家にいた。お文は日本橋のお座敷に芸者として出ている。伊三次の稼ぐものだけでは親子三人食べていくのが容易でなかったからだ。  いつもなら、弟子の九兵衛《くへえ》の母親が、伊三次が帰るまで息子の伊与太《いよた》を預かってくれている。伊三次は台箱を置くと、すぐに伊与太を迎えに行くのだ。  茶の間へ入って行くと、伊与太が赤い顔をして蒲団に寝ていた。お文は伊与太の具合が悪いので、お座敷を休んだらしい。 「どうした」  伊三次は慌てて伊与太の枕許に近づき、お文に訳を訊く。 「疱瘡《ほうそう》だって」  お文は吐息混じりに応えた。 「ええっ?」  伊与太は去年生まれたばかりの赤ん坊である。そんな小さな内から疱瘡に罹《かか》るとは思いも寄らなかった。 「最初は風邪を引いたとばかり思っていたんだよ。念のため松浦《まつうら》先生に診《み》て貰ったら、これが疱瘡。どこからうつったんだろう。九兵衛はとっくに済ませていると言うし……」  松浦先生とは八丁堀の町医者で不破の家の掛かりつけの医者でもある。  伊与太はとろりとした眼をしてお文と伊三次の顔を見ている。色白の子供だから、熱のせいで頬がほんのり赤らんでいる。だが、まだそれほど苦しそうではなかった。 「松浦先生は薬を用意してくれたんだろうな」  そう訊くと、お文は力なく首を振った。 「伊与太はまだ赤ん坊だから、薬はなるべく使わない方がいいとおっしゃったよ。いよいよ危ないとなったら、その時に手立てを考えるそうだ」 「いよいよ危なくなったらって、お前ェ……」  松浦|桂庵《けいあん》は伊与太の脈をとっただけで、何もせずに帰ったということなのか。伊三次は途端に不安になった。 「何んの病でも初中終《しよちゆうしゆう》があって、その時が過ぎなけりゃ治らないそうだ。特に疱瘡は、|ほとぼり《ヽヽヽヽ》(発熱)があって、|ほみせ《ヽヽヽ》(発疹)が出て、膿《うみ》がきて、瘡蓋《かさ》ができ、その瘡蓋が剥《は》がれて、ようやく治るそうだ。あせったところでどうしようもないとさ」 「そんなこたァ、おれでも知っている。なるべく軽く済むように手当てをするのが医者の務めだろうが。伊与太はまだ言葉も喋られねェ赤ん坊なんだぜ」  伊三次はその場にいない松浦桂庵に怒りを露《あらわ》にした。伊与太は泣きべそを掻いた。自分が叱られたと思ったらしい。お文に手を伸ばして助けを求める。お文は伊与太の手を握って揺すった。 「わっちに八つ当たりしても始まらないよ。向こうは、いやというほど疱瘡の子供を診ている。傍《はた》がとやかく言うことでもあるまい」 「だけど、もしものことがあったら、どうするよ」 「そうだねえ、お前さん、明日、絵草紙屋に行って、赤絵本を買ってきておくれ」 「絵本なんざ、役に立つか!」  怒鳴った伊三次に伊与太は、|ぎゃっ《ヽヽヽ》と泣いた。お文は伊与太を抱き上げて宥《なだ》める。それから、低い声で言った。 「気休めでも、何かしないと落ち着かないよ。わっち等は伊与太の親だろうが」  そう言われると返す言葉もなかった。  子供が疱瘡に罹ると身の周りの物を赤づくしにする習慣が江戸にはある。寝具も衣服も、おもちゃも、すべて赤にする。その中に赤絵本と呼ばれるものもあった。表紙も赤、中身の絵や文字も赤、綴《つづ》り糸も赤である。そこには疱瘡が軽く済む養生方法や、呪《まじな》い、流行《はや》り唄などが書かれていた。 「買ってくるよ」  伊三次は仕方なく言った。 「よかったねえ、伊与太。|ちゃん《ヽヽヽ》が赤絵本を買ってくれるんだって。きっとこれで軽く済むよ。安心おし」  お文は伊与太に微笑みながら言った。  翌日から、お文は伊与太の周りを赤で固めた。九兵衛の母親のお梶《かじ》に赤い木綿で着物や頭巾《ずきん》を拵えさせ、九兵衛には疱瘡の守り札を貰いに行かせた。  そればかりでなく、伊与太の枕許には疱瘡棚を設《しつら》え、八丈島で疱瘡神を退治したとされる鎮西八郎為朝《ちんぜいはちろうためとも》が描かれた赤絵を貼り、赤|餅《もち》、赤団子、赤|小豆飯《あずきめし》、赤鯛を供《そな》えた。  見舞いに訪れる近所の者も赤い菓子やら、赤い玩具やらを持って来た。むせるほど赤に囲まれているにも拘《かかわ》らず、伊与太の症状は日に日に重くなっていった。  高熱が続き、伊与太はぐずる。伊三次はお文と代《か》わる代《が》わる抱いてあやした。だが、次第に泣き声が弱くなり、意識が朦朧《もうろう》としてきた。  伊三次は九兵衛を八丁堀にやり、再び松浦桂庵の往診を頼んだ。桂庵は伊与太の症状に困惑した様子だった。熱さましの薬を与えたが、それはさして効果もなく、熱は依然として下がらなかった。桂庵では用が足りないと踏んだ伊三次は近所の別の医者にも声を掛けたが、その医者もなりゆきを見るしかないと応えた。  伊与太は食べ物も受けつけず、無理に重湯《おもゆ》を与えても、すぐに吐いた。伊三次の目にも、伊与太が衰弱していく様子は明らかだった。  お文は帯も解かず、伊与太の看病に掛かり切りだった。お文の顔にも憔悴《しようすい》の色が濃かった。  団子坂にいる浪人の様子を探れと不破から命じられた時、伊三次はよほど断ろうかと思った。伊与太の傍《そば》を離れたくなかった。だが、お文は、「行っといで。ここでわっちとお前さんが息を詰めていたって始まらないよ」と、言った。 「お前ェは心細いだろう」  伊三次はお文を気遣う。 「平気だ」  お文は豪気《ごうき》に応える。 「これで伊与太の命がはかなくなっても、わっちは寿命だと諦めるよ」 「まだ、そこまで考えるのは早ェ」  伊三次は慌ててお文を制した。 「いいや。松浦先生も近所の藪《やぶ》も匙《さじ》を投げたんだ。わっちにはそうとしか思えない」 「お文……」 「弱い子を産んじまった。お前さん、勘弁しておくれ」  お文はそう言って洟《はな》を啜った。お文はすっかり覚悟を決めているようだ。たかが疱瘡と思っていただけに、伊三次の胸は震えた。  疱瘡は「お役《やく》」と呼ばれ、幼い子供達には免《まぬが》れることのできない病だ。それをいかに軽く済ませるかが、子供を持つ親達にとっては大きな問題だった。  疱瘡で亡くなる子供は多い。伊三次は今まで、それを他人事《ひとごと》のように考えていただけに、わが身に降り掛かって身の置きどころもないほど、うろたえていた。  伊与太が死ぬ? あどけない笑顔が消える?  そんな馬鹿な。そんなことはある訳がない。  伊三次は必死で恐ろしい想像を頭から振り払った。  団子坂は上野のお山から寺町を抜けた所にある。不忍池《しのばずのいけ》まで来た時、ふと越前屋|醒《さむる》の分別臭《ふんべつくさ》い表情が浮かんだ。越前屋なら伊与太が助かるか助からないか、わかるのではないかという気がした。  しかし、それは一方で、ひどく怖い気もした。伊与太の不幸な結果など確かめたくもない。  一度、店の前を行き過ぎたが、思い直して伊三次は一風堂・越前屋の暖簾《のれん》をくぐった。  越前屋は店座敷で刀の手入れをしていた。 「お越しなさいませ。珍しいですね。今日は裏の稼業ですか」  黒っぽい着物に前垂れを着けた越前屋は如才ない口を利き、伊三次を店座敷に促《うなが》した。  裏の稼業かと訊いたのは伊三次が台箱を持っていなかったからだろう。 「越前屋さん、おれの顔を見て、何か胸騒ぎがしやせんかい」  伊三次は挨拶もそこそこに、ずばりと訊いた。 「はて、何んの謎《なぞ》掛けですかな」  面喰らった顔で越前屋は伊三次をまじまじと見た。 「とにかく、今のあんたから見て、おれに何か災《わざわ》いが降り掛かりそうかどうかを訊きてェのよ」  越前屋は思案顔をしていたが、しばらくして、「別に何か悪いことが起こるようには思えません」と、応えた。  その拍子に伊三次の口から長い吐息が洩《も》れた。越前屋の言葉に、とり敢えず伊三次は安堵した。 「妙なことを訊いて、あいすみやせん。いえね、息子が今、疱瘡に罹っているんですよ。症状がことの外《ほか》、重くて、女房は半ば諦めているんです。もちろん、おれは最後まで諦めたくねェ。ちょいと越前屋さんに占って貰おうという気になりました」 「わたしは辻占《つじうら》じゃありませんよ」  越前屋は苦笑した。 「へい、わかっておりやす。溺れる者は藁《わら》をも掴むのたとえでさァ」 「ご心配でしょう。お気持ち、お察し致しますよ」  越前屋は気の毒そうに言った。 「男親なんざ、こんな時、何もできやせん。それが歯がゆいんです」 「わたしは子供がいないので、子供のある人を羨《うらや》ましく思うこともありますが、こんなことになると、つくづくいなくてよかったと思いますよ。子供ってのは楽しみでもあり、また苦しみでもある。そんな気がします」 「おっしゃる通りですよ、越前屋さん」 「しかし、そういうことなら坊ちゃんの傍にいた方がよろしいのではないですか」 「へい。ところが不破の旦那から、ちょいと御用を頼まれやして、これから団子坂へ行くところです」 「あの人も気が利かない」  越前屋は不愉快そうに吐き捨てた。 「いえ、女房が家にじっとしていても始まらねェから行って来いと言ったんですよ」 「太っ腹なおかみさんだ。団子坂は何か聞き込みですか」  越前屋の問い掛けに、伊三次は俄《にわ》かに御用の筋《すじ》を思い出した。 「おっと、それについても越前屋さんに意見を仰《あお》ぎてェと思っておりやした。息子のことで動転して忘れるところだった」 「はて、何んでしょう」  越前屋は途端に好奇心を掻き立てられたような表情になった。  伊三次は冬木町寺裏の仕舞屋のことから始め、紫色の小袖を着た娘のこと、団子坂に住んでいる浪人の話をした。  越前屋は両腕を抱え込んだ恰好《かつこう》で伊三次の話を聞き、時々、低い天井を睨んだ。 「その娘は、何かを知らせたがっておりますね」  越前屋は伊三次にあっさりと応えた。 「何をですか」 「恐らく、その浪人は、ろくなことをしていない男だと思います。叩けば埃《ほこり》が出るはずです。娘はそれを知らせたいのではないでしょうか」 「娘はやはり、これですかい」  伊三次は幽霊の仕種《しぐさ》をして見せた。 「いいえ、生霊《いきりよう》だと思います」 「生霊!」  ぎょっとした。この世に住んでいる者が、あらぬ姿を見せているのか。 「その男のために被害を被《こうむ》った娘が、恨みの念を送っているのです。また悪さをするから気をつけろと」 「浪人が紫の小袖の娘の噂を聞いても、さして怖がるふうもなかったのは、手前ェが殺していねェから、別に祟《たた》りもねェはずだと思っていたからですね」 「うーん、どうでしょう。そうなのかな? そうとも言えるかも知れませんね」  越前屋は自信なげに応えた。浪人の胸の内まで、さすがの越前屋でも思いが及ばないようだ。 「するてェと、これは、|かどわかし《ヽヽヽヽヽ》の線が強いような気がしやす」 「まあ、そういうことになりますか。団子坂の近所で行方知れずになっている娘がいないか、伊三次さん、気をつけて探ってごらんなさい」 「へい。もしもそんな娘がいたら、どこか岡場所に売られたってことでしょうか」 「多分そうでしょう。恐らくは江戸ではなく、少し離れた場所になるのでしょうな。江戸じゃ、すぐに足がつく。男と息子が、のうのうと暮らしているのにも合点《がてん》がいくというものです」 「わかりやした」 「御用が終わったら、すぐにお帰りなさい。息子さんが待っておりますよ」 「へい、ありがとうございやす」  伊三次は頭を下げて一風堂を出た。男の正体を暴《あば》いてやると意気込んでもいた。      四  団子坂の周辺は信濃屋の女中のおたみが話した通り、武家屋敷と百姓地があるばかりの寂しい場所だった。男の家は百姓地の傍にある古い民家だった。庭が結構広くて、伊三次が行った時、その庭で二十歳ほどの若者が薪《まき》割りをしていた。恐らく、男の息子になるのだろう。こざっぱりした恰好はともかく、伊三次は若者が役者のように整った顔立ちをしているのに驚いた。年頃の娘ならば、その若者に心を奪われる者が必ずいるはずだ。  だが、男の家の近所には話を聞けそうな所はなく、伊三次は団子坂から少し東にある坂下《さかした》町まで戻り、目についた酒屋へ入った。  酒を量り売りする店だった。出て来た主は、伊三次が客ではないと知ると愛想笑いを引っ込めたが、浪人のことを持ち出すと、待ってましたとばかり喋り始めた。主も男については不審《ふしん》な気持ちを抱いていたらしい。  酒屋の主の話を聞いている内、よくもこれほど不審な男を今まで野放しにしていたものだと伊三次は驚くより呆れた。  多分、男が、さる藩から事情があって召し放しになり、いずれ時が来れば、また帰参《きさん》が叶うだろうと近所の人間に吹聴《ふいちよう》していたせいもあっただろう。基本的には、武士の取り締まりは町方役人の管轄《かんかつ》ではないからだ。  越前屋が予想した通り、行方の知れない娘が何人かいた。百姓地の中に家がある娘、坂下町の指物師の娘、三崎《さんさき》町の大工の娘。いずれも十六歳で、男の息子に思いを寄せていたのも同じだった。  これは男の息子がうまい口で娘を呼び出し、そのまま猿轡《さるぐつわ》でも噛ませて駕籠《かご》に乗せ、どこかへ連れ出したものだろう。捕まえて白状させろと酒屋の主は興奮した口調で言った。  伊三次はその酒屋を出ると、また男の家に足を向けた。息子の顔は見たが、肝腎《かんじん》の父親の顔は見ていない。  ゆっくりと団子坂を上って行くと、目の前に空《から》の大八車《だいはちぐるま》を引いた男がいた。しおたれた恰好ながら袴《はかま》を着けている四十がらみの男だ。  それが問題の男だと伊三次はピンときた。  大八車を使って、いよいよ引っ越しの準備を始めるようだ。伊三次は緊張した。  男は大八車を引いて庭に入った。若者は手を止めて男に笑った。だがその笑みに卑《いや》しいものを伊三次は感じた。こいつ等、まともな者じゃねェ、そういう気がしきりにした。  深川の増蔵に声を掛け、張り込みを強化しなければならないと思った。  男の家から踵《きびす》を返すと、伊三次は不意に伊与太の泣き声を聞いた気がした。胸がどきりと音を立てた。まさか、伊与太に何かがあったのではあるまいか。  胸騒ぎは治まらない。伊三次は思わずその場にしゃがみ込んで両手で顔を覆《おお》った。目まいも覚えた。おれはこんな所で何をしているのだろうという気持ちだった。他人の娘を売り飛ばした金で生きている屑《くず》の男のために、大事な息子を見殺しにしていいのか。  伊与太にもしものことがあったら、明日から、どうして生きてゆけばいいのかわからない。いや、伊与太一人で逝《ゆ》かせるのは可哀想だから、自分もついて行ってやろうと本気で思った。そうだ、それしかない。だっておれは伊与太の父親だから。  シャン。伊三次の耳許で、その時、鈴の音が聞こえた。  顔から手を離すと、赤い鼻緒をつけた黒塗りの駒下駄が目の先にあった。その駒下駄には鈴が仕込まれていたのだろう。  ゆっくりと顔を上げると、若い娘が心配そうな顔で伊三次を見下ろしている。伊三次の膚《はだ》が粟立《あわだ》った。娘の着物が鮮やかな江戸紫だったからだ。つと手を伸ばすと、娘はすばやく体《たい》を躱《かわ》した。そのまま、ぎこちない足取りで伊三次の前を歩いて行く。 「待て、待ってくれ!」  慌てて後を追い掛けた。  くるぶしが白い。伊三次の胸の鼓動はこれ以上ないほど高鳴っていた。だが、不思議に恐ろしさは消えていた。 「必ず、あの浪人をとっ捕まえるぜ。約束する。だから、だから……」  伊三次は娘を追い掛けながら叫んだ。 「伊与太を助けてくれ。おれの息子だ。疱瘡で死にそうなんだ。頼む、何んでもする」  娘はつかの間、伊三次を振り返った。表情は朧《おぼ》ろでわからない。娘は顔を元に戻すと前を進んだ。団子坂を下り、坂下町の町並みを抜け、寺町に入った。伊三次は娘から目が離せず、黙って後を追い掛けた。  やがて娘は一つの寺の中に入って行った。慌てて伊三次も続く。  だが、広い境内に入ると、娘の姿は消えていた。何んという寺なのだろう。名前はわからなかった。しかし、目の前の本堂の扉は開け放たれている。伊三次は何かに吸い寄せられるように本堂へ進んだ。  賽銭箱《さいせんばこ》が置いてあり、畳敷きの奥に祭壇が祀《まつ》られ、錫杖《しやくじよう》を手にした地蔵の姿が目についた。  賽銭箱の前には地蔵の謂《いわ》れが書かれてあった。病を得た子供の回復を願うならば、おんころころ、せんだり、まとうぎそわか、と三回|唱《とな》えろと、経《きよう》の文句も添えられていた。  伊三次は懐から紙入れを取り出し、波銭を掴んで賽銭箱に放り入れ、掌《て》を合わせた。 「おんころころ、せんだり、まとうぎそわか。おんころころ、せんだり、まとうぎそわか。おんころころ、せんだり、まとうぎそわか」  経の意味などわかりはしなかった。だが、その時の伊三次には必死で祈るしか、他に術《すべ》はなかった。日頃、神仏に掌を合わせることなど滅多にない伊三次である。両親の墓参りすら姉のお園《その》に任せ切りで、伊三次は線香代を幾らか包むぐらいだ。  お参りを終えると伊三次の気持ちは幾分、落ち着いた。境内のしだれ桜が、さわさわと音を立てているのにも気づいた。  そうだ。今は花見の時季だったと思い出す。  来年、自分は桜をどんな思いで眺めるのだろう。伊与太にもしものことがあったら、きっと自分は桜を憎むのではないか、そんな気がして仕方がなかった。  伊三次はそれから深川の増蔵の所へ向かった。浪人は今日、明日にでも冬木町寺裏に越して来る様子である。その前に、近所の若い娘達に注意を呼び掛けなければならない。  だが、門前仲町に着くと、新たな展開が伊三次を待っていた。  隠密廻り同心の緑川平八郎は、男が仕えていたとされる藩に男の素性を密かに訊いた。  そのような男は見たことも聞いたこともないということだった。 「増さん、これから緑川の旦那はどうするつもりなんだ」  本郷から歩いて、すっかり疲れ果てた伊三次は弱々しい声で増蔵に訊いた。 「侍じゃなければ遠慮はいらねェ。しょっ引《ぴ》いて、締め上げるだけよ」  増蔵は当然のように応える。 「さいですね」 「昼前に不破の旦那がこっちにやって来たが、お前ェのところの倅《せがれ》、疱瘡に罹ったというじゃねェか」  増蔵は話題を変えるように言った。もはや浪人のことなど、どうでもいいという顔だった。 「へい……」  伊三次は力なく応えた。 「何んでェ、具合はよくねェのかい」  増蔵は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。 「ちょいと危ねェんです」 「そいつァ……」  増蔵は、つかの間、言葉に窮した。だが、すぐに、「早く帰《け》ェんな」、と言った。 「増さん、おれァ、帰ェるのが恐ろしい。もしものことがあったらどうしようって」 「馬鹿野郎! 手前ェ、親父じゃねェか。もしもなんてことは考えるな。最後の最後まで気を強く持っていなくてどうする」  増蔵は声を荒らげた。伊三次のことを、いつも親戚のように親身に思ってくれる男だった。 「餓鬼なんてものはな、一人前になるまで、そりゃあ、色んなことがあるもんだ。おれだってそうだ。倅や娘が風邪を引いただけで夜もろくに眠れねェ。だがよ、でェじょうぶだ、でェじょうぶだ、お父《と》っつぁんがついているぜと声を掛けてやりゃ、安心するんだ。お前ェも傍についててやんな」  増蔵は伊三次を諭《さと》すように続ける。 「わかっておりやす。わかっておりやすが……」  伊三次は自分の身体と心がばらばらになっているような気がした。自分が今、門前仲町の自身番にいることすら、何か信じられないように思える。伊三次は意味もなく頬を抓《つね》った。痛みは感じなかった。 「伊三」  増蔵が伊三次の肩に手を置いた時、自身番の外から、「増蔵、いるか」と、声が聞こえた。増蔵は慌てて戸を開いた。  吟味方《ぎんみかた》与力、片岡郁馬《かたおかいくま》が伴の者を十人ほど引き連れ、捕物|装束《しようぞく》の恰好で立っていた。伊三次も慌てて立ち上がった。 「出入りですかい」  伊三次は片岡に訊いた。その声は自分でも驚くほどしっかりしていた。伊三次に正気を取り戻させたのは皮肉にも捕物の緊張感だった。 「浅間余左衛門《あさまよざえもん》ならびに一子、余一郎《よいちろう》を召し捕る。板橋の宿で三崎町の大工の娘らしいのが見つかったと知らせがあった。父親が仕事もうっちゃって宿場をくまなく巡った結果、ようやく探し当てたということだ。さすが親だな。奉行所は、とてもそこまで手が回らねェ。娘の口から余左衛門と余一郎の仕業が割れた。奴等は今、団子坂から深川に向かっておる。着いたところを捕らえるのだ。お前達も仕度をしろィ!」  片岡は澱《よど》みなく言った。  浅間余左衛門は浪人の名であり、余一郎はその息子のことだった。団子坂で聞き込みをした時、伊三次はその名を出したろうかと、ふと思った。覚えていなかった。  酒屋の主と話をした時も、浪人、その息子で通したのか。いや、酒屋の主は伊三次に、もっと重要なことを喋ったのではなかったろうか。一切が脳裏から消えていた。覚えていたのは紫の小袖を着た娘の下駄の音だけだ。  歩く度にシャンシャンと可愛い音がした。伊三次を寺に導いた音だった。 「伊三、お前ェは帰ェれ。後はおれ達に任せろ」  増蔵は伊三次を気遣って言った。 「いえ、おれも行きます。おれは娘と約束したんだ。きっと奴等を捕まえると」 「お前ェ、何言ってる。娘たァ、どこの娘だ。頭がおかしくなったのか。しっかりしろ」  増蔵は怒鳴った。 「どうした」  片岡は怪訝な表情で二人の顔を交互に見た。 「いえ、こっちのことです。ご心配なく。旦那、どういう段取りをつけておりやすんで?」  伊三次は増蔵に構わず訊いた。増蔵は伊与太のことを片岡に話すつもりだったが、それは伊三次に止められた形となった。 「うむ。奴等より先に冬木町寺裏に行き、気づかれないように待ちぶせする。奴等が家財道具を運び入れる隙を狙って、一斉に飛び出す。無事に捕らえたら、舟で茅場《かやば》町の大番屋へ連行する手はずだ。すでに仙台堀の海辺橋に舟を待たせておる。抜かるな。大番屋には不破と緑川が控えているはずだ。早々に後の二人の娘の所在を吐かせる」 「承知致しやした」  応えた伊三次に、増蔵はもう、何も喋らなかった。伊三次は襷《たすき》で袖を括《くく》り、着物の裾を尻端折《しりつぱしよ》りした。増蔵も裾を端折り、房なしの十手を帯の後ろに差し入れた。      五  伊三次は奉行所の役人達と冬木町寺裏に着くと、近所の者達に、戸締りして家から出るなと触れ回った。すでに時刻は夕方になっていた。  浅間余左衛門、余一郎親子は、それから一刻《いつとき》(約二時間)後、大八車に家財道具を乗せてやって来た。ここで捕らえなければ、深川の娘達の何人かが、また奴等の毒牙《どくが》に掛かる。  伊三次も必死だった。物陰に身を潜めながら、ゆっくりと酒屋の主の言葉を思い出した。  余左衛門が釣りの恰好で出かけていたのは、獲物の娘を物色するためだった。夜になっても家に戻らず、外で無駄話に興じている娘は存外に多かった。そんな娘に目星をつけると、今度は余一郎の出番だった。さり気なく娘に近づく。顔見知りになると、余左衛門は自宅で花見や月見の宴を張り、その時、男所帯で女手が足りないことを理由に娘に手伝いを頼むのだ。目当ての娘だけを誘うと疑われるので、近所の女房達も二、三人呼ぶ。  宴たけなわになった頃、余左衛門の仲間が家の戸を叩く。余一郎は娘に、ちょっと見てきてくれと言う。余左衛門はおもしろおかしい話を女房達に聞かせて注意を逸《そ》らす。娘はその間に余左衛門の仲間が連れ去るのだ。やがて、女房達も娘が戻って来ないことに不審を覚える。  余一郎は自分が様子を見てくると言って、外に出る。首尾よく、娘を連れ出したかどうかを確認するのだ。余一郎はなかなか戻らない。その内に夜が更《ふ》けてくる。余左衛門は、後のことは任せて、あんた達はお帰りなさいと言って女房達を帰す。  翌日は土地の岡っ引き、下っ引きも加わり、娘の行方を探すが、その時は娘の影も形もないという訳だ。余左衛門の仲間は駕籠|舁《か》きか舟の船頭だろうと酒屋の主は言った。伊三次は、数日前に乗った年寄りの船頭のことを、ふっと思い出した。冬木町寺裏に現れる娘に、あまり深入りするなと伊三次に言った。あれは警告だったのか、それとも脅《おど》しだったのか。  三人目の三崎町の大工の娘が行方知れずになった頃から、団子坂周辺の住人達は余左衛門親子に、はっきりした疑惑を抱くようになった。紫の小袖の娘を住人達の何人かが目にして、住人達は娘が何かを知らせているのだと思うようになった。それは越前屋の見解と同じだった。  大家がそれとなく立ち退《の》きを迫ったのを潮に余左衛門は自分達の仕事がしやすい塒《ねぐら》を探した。それが冬木町寺裏の仕舞屋だったという訳だ。  余左衛門親子は笑いながら冬木町寺裏にやって来た。何がそんなに愉快だったのか。今しも、自分達が役人に捕らえられることになるとは微塵《みじん》も思っていない様子だった。かどわかしに遭った娘達もそうだったろう。  思いを寄せる余一郎に誘われ、胸一杯で家を訪れたのだ。余一郎に何か頼まれると、嬉々《きき》としてそれをした。礼を言って、優しく微笑んだ余一郎は、自分に好意を持っているものと確信しただろう。目の眩《くら》むような喜びは数時間後には木《こ》っ端《ぱ》微塵に砕けた。  声を出す間もなく、縛られ、担《かつ》ぎ上げられて見ず知らずの場所に運ばれたのだ。不安と恐ろしさが癒える暇もなく、遊女に仕立てられ、客を取らされる。涙が涸《か》れるほど泣いても、誰も自分を迎えに来てはくれない。余一郎に対する怒りだけが大きく膨らんでいく……。 「余一郎、掃除をせねばならぬの。誰ぞ手伝ってくれそうな娘を探せ」  余左衛門は新たな住まいを一瞥《いちべつ》して言った。 「父上、それはまだ早いと思いまする。|おいおい《ヽヽヽヽ》に」  余一郎は意味深長な言い方をした。 「うむ。おいおいにの」  余左衛門は息子の言葉を鸚鵡《おうむ》返しにして笑った。いけ図々しいにもほどがある。本郷から深川へ着いた途端に、もう次の獲物を物色する算段をしている。伊三次は怒りで目まいすら覚えた。  片岡が合図の目配せをした。伊三次は頭から髷棒《まげぼう》を引き抜いて身構えた。髷棒は伊三次にとっては十手代わりだ。中に錐《きり》が仕込んである。  片岡が二人の前に躍り出ると、伴の者が周りを取り囲んだ。 「何者だ」  余左衛門は気色ばんだ声を上げた。余一郎の顔は蒼白になった。色白の男だから、宵闇の迫る空の下でも、それはよくわかった。 「北町奉行所、吟味方与力、片岡郁馬である。三崎町の大工の娘、|しず《ヽヽ》をかどわかした咎《とが》で貴様等を捕らえる」 「何んのことやら、拙者には皆目、覚えがござらん」 「ええい、往生際の悪い奴め。板橋の宿で、しずを見つけた。貴様等の悪事は明白だ。神妙にお縄を受けろ」 「痩せても枯れても、拙者は武士でござる。町方の不浄役人の指図は受けぬ」  余左衛門はぬけぬけと応える。 「ほう。ならば、誰の指図なら貴様は神妙にするというのだ」  片岡は試すように訊いた。 「奥州、白河藩、寄合組の柴田勘五衛門《しばたかんごえもん》殿にお取り次ぎを願いたい。柴田殿は我等のことは、よっく、ご存じである。陋巷《ろうこう》に身をやつしていても、いずれ月日が経《た》てば主家に帰参が叶う立場でござる。お手前方のなさることは僭越《せんえつ》至極と申すもの」 「世迷《よま》い事も大概に致せ。白河藩では貴様のことなど見たことも聞いたこともないと言うておる。それとも、その柴田某も貴様の仲間か。これは由々しき事態。お奉行から、さっそく、その筋に詮議を願い出ることに致す」 「柴田殿は確かに寄合組で、白河藩の家臣でござる。拙者は柴田殿に仕えていた者。藩の下っ端がご存じないこともござる」 「何んでェ。家来の家来けェ」  片岡は小馬鹿にしたように言った。 「したが、今のおぬしは浪人の立場。取り締まりは町方役人に委《ゆだ》ねられるのだ。神妙に致せ」  片岡はそう続けて、十手を構えた。  何を言っても通らないと観念した余左衛門は大八車を楯《たて》にして抵抗した。しかし、多勢に無勢。余左衛門は、ついに捕らえられた。  余一郎はその隙に仕舞屋の裏に逃げ込んだ。  伊三次と増蔵はすばやく後を追った。  逃げ道は閉ざされている。仕舞屋の後ろは堀だ。 「兄さん、おとなしくしてくんな」  そう言った伊三次を余一郎は無言で睨んだ。異様に眼が光っていた。刀の鯉口を切って身構える。だが、どこもここも隙だらけだ。刀を抜くのは、それが初めてだったのではないかと、伊三次は思った。 「人を斬ったことがあるのけェ?」  伊三次は笑いながら訊いた。その瞬間に、|びゅっ《ヽヽヽ》と切っ先がきた。伊三次は、あっさりと躱《かわ》した。躱しながら髷棒を相手の太股《ふともも》へ突き立てた。  余一郎は痛みに呻《うめ》いた。増蔵がその隙に十手で刀を打ち落とした。 「痛ェかい? 痛ェってことは生きてる証拠だぜ。若い娘をたぶらかすより、もっとやることがあったによう。業晒《ごうさら》しな野郎だぜ」  言いながら髷棒を抜いた。余一郎は、がっくりと前に膝を突いた。 「手前ェ、本当に余一郎の|てて《ヽヽ》親かい?」  不破は大番屋で、しみじみと余左衛門に訊いた。浅黒い膚をした、|あばた面《ヽヽヽづら》の余左衛門と端正な容貌の余一郎とは、あまりに似ていなかったからだろう。 「確かに余一郎は拙者の倅にございまする」  余左衛門は、その時だけ素直に応えた。それまでは知らぬ存ぜぬを通して手に負えなかったのだ。  だが、しずのかどわかしが明白となると、余左衛門はとうとう観念した。  余左衛門は白河藩の柴田勘五衛門の屋敷に使われていた中間《ちゆうげん》であった。  女房が勘五衛門に仕える若党に懸想《けそう》したことから諍《いさか》いとなり、余左衛門はその若党と女房を殺してしまった。勘五衛門は余左衛門に同情を寄せていたらしい。だが、そのまま屋敷に留め置くことはできず、金を渡して屋敷から追い払った。  その後、余左衛門は余一郎とともに流浪の旅に出た。内心では、ほとぼりが冷めたら、また柴田の屋敷に戻れるものと考えていたらしい。柴田自身には、一向、そのつもりはなかったようだが。  余左衛門は江戸に辿り着いたものの、懐が寂しい身では住まいに金も掛けられない。団子坂の家の曰《いわ》くを承知で借り受けたのだ。  余左衛門は、最初からかどわかしを企《たくら》んだ訳ではなかった。  百姓地に住む娘が余一郎に岡惚れして、昼となく夜となく様子を窺《うかが》いにくるようになった。  その娘が突然、行方知れずになった。どこへ行ったのか見当がつかなかった。余左衛門が手習いの内職を終えると近くの川で釣りをしていたのは本当だった。それでお菜の足しにしていたのだ。ところがある夜、余左衛門は川で男達が娘を連れ出すところを目撃した。  男の一人が余左衛門に口止め料の小判を放った。夜目にも小判の色は艶々《つやつや》と輝いていた。  喉から手の出るほどほしかったものである。  余左衛門はその時から悪事に手を染めるようになったのだ。それどころか、進んでかどわかしの算段をするようにもなった。余左衛門の仲間は駕籠舁きの二人の男と、伊三次が当たりをつけた船頭、金次《きんじ》だった。余左衛門は大番屋での取り調べが進む内、この三人に罪をなすりつけようとして墓穴を掘ってしまったのだ。 「まあ、倅《せがれ》は、今は|きれえ《ヽヽヽ》な面をしているが、年を喰えば、お前ェのようにあくどい面になるんだろう。気の毒にな」  不破は皮肉に吐き捨てた。 「ささ、親子なかよく、獄門台に上って貰うとするか。さっさと爪印《つめいん》を押しな」  不破は余左衛門の前に口書《くちが》き(自白書)を差し出した。憮然として余左衛門が爪印を押すと、余一郎は悲鳴を上げた。 「おれは知らない。おれは父上の言うことに従っただけだ。おれに罪はない!」 「往生際《おうじようぎわ》が悪いぜ。二十歳にもなって知らねェということがあるものか。娘を売った銭で、お前ェもうまい物を喰ったんだろう? なら、仕方がねェと諦めるんだ。てて親と一緒にあの世行きたァ、お前ェも親孝行な倅だぜ」  そう言った不破は、二人から目を背《そむ》けた。  煙管で一服|点《つ》けようとして、戸口に立っている伊三次に気づき、「お前ェ、何してる。もう引けていいんだぜ」と言った。  伊与太の傍に早く戻れと不破は言いたかったらしい。緑川平八郎はつかの間、訝《いぶか》しい顔をしたが、特に何も言わず、手下に顎《あご》をしゃくり、下手人を牢へ収監しろと命じた。 「ちょいと待って下せェ。わたしは一つだけ下手人に訊ねてェことがありやす」  伊三次は慌てて言った。俯いていた余左衛門が顔を上げた。 「何んだ、言ってみろ」  緑川は袖を括っていた襷を外しながら言った。これから奉行所に口書きを提出しなければならない。いや、その後で、久しぶりに不破と事件の打ち上げを兼ねて一杯やるつもりでもいたのだろうか。やけに急いでいる様子だった。片岡郁馬は、ひと足先に奉行所に戻っていた。 「へい。お手間は取らせやせん。かどわかした娘の中に、紫の小袖を着た娘がいたのかどうかを聞きてェんで」 「だとよ」  不破は余左衛門に返事を急《せ》かした。 「存じません」  余左衛門は硬い声で応えたが、その後で、ふっと笑った。同心の小者《こもの》が下らない噂に振り回されているのかという表情だった。 「お前ェは?」  不破は余一郎にも訊く。 「存じません」  声の調子は二人とも同じだった。 「わかりやした。もう結構でござんす」  伊三次はそれだけ言うと、不破と緑川に頭を下げ、そのまま大番屋の外に出た。  生ぬるい風が伊三次の額を嬲《なぶ》った。とっぷり暮れた空に、よく光る星が見えた。伊与太はどうしたろう。お文はさぞかし心細い思いをしていることだろう。  無力な自分を伊三次はつくづく恥じていた。  佐内町に向ける足は重かった。  すでに表戸を閉《た》てた家は通用口だけが半開きになっていた。伊三次が戻って来るのを待っているふうが感じられた。そこから中の灯《あか》りが洩れていた。  唇を噛み締めて中へ入ると、意外にも賑やかな声が聞こえた。お梶と九兵衛がいる様子である。  男の声もした。土間口には薄汚れた雪駄《せつた》が揃えてあった。  人の気配に気づいて障子が開き、九兵衛の父親の岩次《いわじ》が顔を出した。 「親方、遅かったですね」 「すまねェ。どうしても抜けられねェ用があったもんで。伊与太は?」  不安な気持ちで恐る恐る訊ねると、岩次は|にッ《ヽヽ》と笑った。 「もう大丈夫ですぜ。熱は下がりやした」  足許から力が抜けた。雪駄を脱ぐのももどかしく茶の間に上がると、赤造りの伊与太が、くうくうと眠っていた。その顔に赤い斑点が幾つもできている。 「お前さん!」  お文は泣き笑いの顔を伊三次に向けた。 「熱が下がったってか? よかった……」 「一時は本当に駄目かと思ったんだよ。だって伊与太、白目を剥《む》いたんだもの。お梶さんに来て貰って、二人で必死で頭を冷やしたんだ。そうしたら、八つ(午後二時頃)辺りから、不思議にすうっと熱が引いたんだよ。それから、わっちの乳をしゃぶって、重湯も飲んでくれたのさ。夕方に松浦先生がやって来て、もう大丈夫と太鼓判を押してくれたんだよ。わっちはもう、嬉しくて嬉しくて、岩さんに一杯飲ませていたところだ。ついでにわっちもお相伴《しようばん》さ」  お文は晴れ晴れとした顔で言う。伊三次は何も言えず、黙って肯《うなず》くばかりだった。  八つと言えば、伊三次が娘に促された寺で、おんころころと祈っていた時分である。  ご利益《りやく》はあったのだろうか。  それにしても、あの紫の小袖の娘は、いったい何者だったのだろうか。かどわかされた娘ではないと余左衛門は言った。とすれば、振袖火事に因縁がある三人の娘の一人なのか。二百年近い時を越えて現れた娘の意図は何んだろう。伊三次は考えても考えてもわからなかった。  瘡蓋が剥がれると、伊与太の額と右の頬に薄い|あばた《ヽヽヽ》が残った。お文はそれを見て悔しがった。  疱瘡は見目《みめ》定めとも言われる。容貌に少し影響を及ぼすからだ。だが、あばたぐらい何んだ、と伊三次は思う。生きて目の前で伊与太が笑ってくれるだけで十分だった。胸が悪くなるような不安に比べたら、今は滅法界、倖せだった。  伊与太が回復すると、お文は伊与太が使った赤い物を焼いて供養した。守り札を受けた神社にも礼に訪れた。  伊三次も願|ほどき《ヽヽヽ》に団子坂近くの寺へ向かったのだが、どうした訳か、目ざす寺には辿り着けなかった。紫の小袖の娘が幻なら、その寺もまた幻であったのだろうか。それにしては、あの経の文句は鮮明に伊三次の中に残っている。  おんころころ せんだり まとうぎ そわか  この世には理屈のつけられない不思議がある。それを信じる者と信じない者がいる。  伊三次はどちらかと言えば、信じない方の部類だ。しかし、あの時、伊与太は確かに神仏に守られたと思う。紫の小袖の娘が、あの寺に伊三次を導かなかったら、伊与太はもしかして助からなかったかも知れない。  心底、ありがたいと思う。伊三次は娘に宣言した通り、余左衛門親子を捕らえた。片岡と他の役人の助っ人があったものの、とり敢えず、約束は果たした。  自分のやるべきことを全《まつと》うする。それしか娘に恩返しする術はなかった。  三崎町の大工の娘は無事に戻って来たが、後の二人の足取りは、とうとう掴めなかった。  日光辺りの宿場で見掛けたという噂も聞いたが、何しろ後の二人の娘が行方知れずとなってから、かれこれ五年も月日が経っているので、北町奉行所でも、それ以上、探索の手を伸ばすことはできなかった。  三崎町の大工の娘も、無事に戻って来たものの、一旦は売られた身である。これから、まともな嫁入りは難しいことであろう。  事件が解決したから、それでいいというものではない。肝腎なことは事件を未然に防ぐことだと、伊三次はつくづく思う。そのためにも髪結いの傍《かたわ》ら、伊三次は江戸の町々を歩く。歩いて不審な情報を集めるのだ。  冬木町寺裏の仕舞屋は、それから間もなく取り壊されて更地《さらち》となった。  当面、新たにそこへ家を建てる予定はなかった。雑草は勢いよく生い繁り、笹藪は範囲を拡げた。その場所は以前より一層、寂しい場所となってしまった。  伊与太の疱瘡の手当ての費用は全部で銭二千六百二十五文。伊三次にとっては大層な掛かりであった。   参考書目   「江戸のことば」(河出文庫)岡本綺堂著   「江戸老いの文化」(筑摩書房)立川昭二著 [#改ページ]   その道 行き止まり      一  髪結いの伊三次は毎朝、八丁堀の亀島《かめしま》町にある不破《ふわ》家の組屋敷へ通《かよ》っている。  町奉行所の与力、同心は髭《ひげ》を当たり、髪を結って奉行所へ出かけるのが慣わしだった。  不破の息子の龍之進《りゆうのしん》が見習いとして奉行所に出仕《しゆつし》するようになると、伊三次の仕事もさらに忙しくなった。  何しろ、五つ(午前八時頃)までと定められている出仕時刻前に二人分の頭をやらなければならないからだ。そのために伊三次は弟子の九兵衛《くへえ》を八丁堀へ同行させるようになった。  九兵衛はまだ十二歳なので早起きが辛《つら》そうだった。母親のお梶《かじ》にさんざんどやされて、ようやく伊三次の所へやって来る。可哀想だが、髪結いの弟子となったからには仕方がない。眠り足りない顔の九兵衛と一緒に、伊三次は開いたばかりの町木戸を抜けて八丁堀へ向かうのだ。  伊三次が不破の頭をやっている間、九兵衛は龍之進の月代《さかやき》を生温《なまぬる》い湯で湿したり、髪を梳《す》いたりする。時々、欠伸《あくび》を洩《も》らす。その日もそうだった。 「貴様、今、欠伸をしたな」  龍之進は癇《かん》を立てて九兵衛を詰《なじ》った。 「いえ……」  九兵衛は慌てて否定する。 「うそをつけ。おれにはちゃんとわかっている。いいか、お前は伊三次の弟子となって大変だろうが、おれだって奉行所の見習いに出てから遊ぶ暇もないんだ。少しは人の気持ちを考えろ。朝から欠伸をされたんじゃ、やる気が失《う》せる」  龍之進が小言を言えるのは、今のところ、この九兵衛だけだ。九兵衛は、「すんません」と殊勝に謝る。お蔭で九兵衛はすっかり眼が覚めたようだ。二人のやり取りを不破と伊三次は含み笑いを堪《こら》えながら聞いていた。 「坊ちゃん、あいすみやせん。旦那の頭は|じき《ヽヽ》に終わりやすから、もうちいっと、ご辛抱願いやす」  伊三次は不破の髷《まげ》に元結《もつとい》を巻きつけながら言った。 「おれは別に催促している訳ではありませんよ。まだ時刻には間《ま》がありますから」  そうは言ったが、龍之進は内心でいらいらしていた。本勤《ほんづとめ》の同心達より早めに出仕するのが見習いの心得でもあるからだ。 「九兵衛、髪結いの修業は辛いか」  不破が横から口を挟《はさ》んだ。九兵衛が龍之進に叱られ、|しゅん《ヽヽヽ》としていたので、不破は機嫌をとったのだ。他人の子供には滅法界、思いやりのある男である。龍之進には小馬鹿にしたようなことしか言わない。 「いえ、そんなことはありません。親方はいい人ですから」  九兵衛は伊三次を持ち上げるように応えた。 「いい人か……そうだな。並の髪結いより、伊三次は|ずん《ヽヽ》とましだ。お前《め》ェ、いい親方についたと思って真面目に修業するこった。客には何を言われても、|へいへい《ヽヽヽヽ》ってな」 「へい!」 「おお、いい返事だ」  不破は鷹揚《おうよう》に笑った。その笑い方も龍之進には気に入らなかった。髪結いの弟子に愛想をしてもどうなるものではない。  不破の頭ができ上がると、伊三次は龍之進の頭に掛かるが、不破に比べて、ずい分、大ざっぱだと龍之進は思う。時間も不破の半分ほどだ。伊三次は自分を軽んじていると不満だった。  龍之進は頭ができると、すぐさま出かける仕度をする。見習い同心といえども仕事は山のようにあった。宿直《とのい》もあれば、お白州《しらす》の警護、諸事使い走りもある。もちろん、捕物があった時は助《すけ》っ人《と》として駆り出されるが、龍之進はまだ、捕物の経験がなかった。  少し暇ができると例繰方《れいくりかた》の用部屋へ出向き、刑法例規調べ、書籍編集を手伝う。その仕事は見習い同心に様々な犯罪の例を覚えさせる効果もあった。八つ(午後二時頃)には奉行所を退出するが、龍之進はそれから南八丁堀の日川《ひかわ》道場へ向かい、一刻《いつとき》(約二時間)ほど剣の稽古に励む。机上《きじよう》の学問が得意でない龍之進は剣の腕を磨いて周りに自分を認めさせるしかなかった。  本勤になったあかつきには父親と同じ定廻《じようまわ》りに就《つ》きたいと龍之進は思っている。  まかり間違って例繰方にでも回されたら一生、用部屋で鬱々《うつうつ》と暮らさなければならない。そうならないためにも剣の稽古は不可欠だった。  稽古を終えて家に帰るとくたくたで、晩飯を食べると、すぐさま床に就くのがもっぱらだった。こういう毎日が隠居するまで続くのかと思うと気は滅入る。龍之進は、もう少し気持ちの余裕がほしいと思っていた。  見習いとなって半年も過ぎると、特に上からの指示はなかったのだが、見習い組の連中は自然に紋付羽織に着物の着流しという奉行所の同心の恰好《かつこう》になっていた。  龍之進も祖父の角太夫《かくだゆう》の羽織と不破が若い頃に着ていた着物を身につけている。それにお奉行から頂戴した朱房《しゆぶさ》の十手を携《たずさ》えたら、どこから見ても奉行所の同心だった。  今年見習いとして出仕した六人はお務めの傍《かたわ》ら、本所無頼派《ほんじよぶらいは》の探索を密かに進めていた。  本所無頼派とは本所近辺の旗本、御家人の次男、三男坊六人で組織されている一団のことである。皆、見習い組の連中より二つ、三つ年上だが、まだ十代の少年達だ。彼等は夜陰に乗じて市中で曲芸じみたことをする。  芝居小屋の丸太で組んだ足場をよじ登ったり、火の見|櫓《やぐら》に上がって大声を出したりする。  直接事件にはなっていないが、それでも市中の自身番には苦情が寄せられているという。  奉行所はそれに対して、まだ本格的に動く様子はなかった。見習い組は自分達の手で、この本所無頼派の連中を捕らえようと考えていた。見習い組が本所無頼派に対抗する意味で八丁堀純情派と称しているのも、その気概の表れだった。  しかし、無頼派は体格も腕っぷしも純情派よりも数段、勝《まさ》っている。今のところ勝算は薄い。それに無頼派の顔ぶれもよくわかっていなかった。  古川|喜六《きろく》という見習い組の朋輩《ほうばい》は、かつて無頼派に所属していたことがあった。喜六の話では、無頼派の面々に多少の変化はあるが、本所|緑《みどり》町に住む薬師寺次郎衛《やくしじじろうえ》という幕府|小十人格《こじゆうにんかく》、薬師寺|図書《ずしよ》の息子が首謀者なのは間違いないらしい。  小十人格は大奥の警護が主たる仕事で、禄高は僅《わず》か百俵だが、身分は旗本格である。  次郎衛の兄は父の跡目《あとめ》を継いで、いずれ小十人格へ番入りするだろうが、次郎衛は他家へ養子に行く宿命《さだめ》だ。養子の口が見つからない限り、いつまでも冷や飯喰いの立場だった。  無頼派の連中は次郎衛に限らず、皆、似たような境遇らしい。鬱積したものを晴らすために彼等は思い切った行動に出るのだろうか。  長男として生まれた龍之進には、彼等の気持ちがよく理解できなかった。  純情派は、さっそく、その次郎衛を捕らえようと考えた。なに、幾ら腕っぷしが強くても、六人が一斉に掛かっていったら何んとかなるというものだ。  だが、喜六は止めた。次郎衛一人では後の五人が口裏を合わせて、うやむやにされる恐れがあった。どうせ捕らえるなら六人いっぺんでなければならないという。そういう段取りは無頼派の連中の中で用意周到に立てられているらしい。無頼派と純情派が揉《も》み合っている時に運よく奉行所の与力、同心が駆けつけて捕らえ、目付《めつけ》に引き渡す方法がいいと言った。しかし、それはひどく難しいことだった。よほどの下手人でなければ与力、同心の出番は期待できない。高い所へ上って猿のようにキャッキャと騒ぐだけの連中を奉行所の役人が本気で捕まえる訳がなかった。それでも、純情派は与えられた仕事をこなしながら、無頼派を捕らえる策を着々と練《ね》っていた。      二  町奉行所の同心には様々な種類がある。見習い同心が本勤になった時、各々の能力に応じた部署に振り分けられる。見習いの内は様々な同心の仕事を覚えるために小伝馬《こでんま》町の牢《ろう》屋敷、小石川《こいしかわ》の養生所、猿屋《さるや》町の会所、吉原にも出向いた。また、本所見廻り、風烈《ふうれつ》見廻り、高積み見廻り、昼夜見廻りにも同行した。本所見廻りを命じられると無頼派を意識して、おのずと皆、緊張した。  本所見廻りは与力一人、同心三人が任務に就き、本所深川の水陸の取り締まりを行なっていた。  龍之進が喜六と二人で本所見廻りを命じられたのは江戸が梅雨に入ってからだった。  その年の梅雨はじとじとと雨が降り続くのではなく、土砂降りになったかと思えば、翌日にはからりと晴れるという男梅雨だった。さっぱりしていいが、晴れた時は陽射《ひざ》しが強くて閉口した。  龍之進と喜六が本所見廻りを命じられた時は、あいにく土砂降りの雨が地面を叩いていた。専任の同心は、普段なら二人を同行させ、見学かたがた、あれこれ仕事の内容を教えるのだが、その雨ではどうしようもなかった。  二人には本所近辺を自由に歩き、もしも不審なことがあったら知らせろと、おざなりに言っただけだった。  龍之進はこれを幸いと、薬師寺次郎衛の家を教えてくれと喜六に言った。 「どうするつもりですか」  喜六は心配そうに龍之進を見た。二人は雨のこともあり、着物の裾を尻端折《しりつぱしよ》り、蓑《みの》と笠の恰好だった。 「いえ、ただ確かめておきたいだけです」 「それならいいですけどね。不破さん、くれぐれも短慮なことはしないで下さい」 「心得た」  二人は通る人もいない本所の通りを緑町へと向かった。竪川《たてかわ》は水嵩《みずかさ》が増し、茶色に濁っていた。  喜六は表通りに面している小ぢんまりとした武家屋敷の前に来ると、「ここです」と龍之進に教えた。年代物の松の樹《き》が漆喰《しつくい》の塀の外まで枝を伸ばしていたが、他は取り立てて言うほどもない構えの家だ。そこに無頼派の一人が住んでいるなどとは信じられない気がした。 「次郎衛は日中、この家にいるのですね」  そう訊《き》くと喜六は僅かに首を振った。 「いや、家にいることはあまりないようです」 「それではどこへ」 「そうですね、午前中は近くの道場で剣の稽古をして、その後は湯屋に行って汗を流します。湯屋の二階で仲間と落ち合い、その夜の首尾を相談します」 「今度、事を起こす相談ですか」 「まあ、それもありますが、たいていは飲み喰いする相談の方が多いです」 「次郎衛は、もう酒を飲むのですか」 「酒は十四から飲んでいると言っておりました。わたしも似たようなものですが」  驚いた。龍之進はまだ酒など口にしたこともなかった。正月の屠蘇《とそ》でさえ飲み込むのに往生した。あんなもののどこがうまいのかと思う。 「古川さんはお家でお義父《ちち》上と晩酌されるのですか」 「まあ、たまに義父に勧められた時は相伴《しようばん》します。酒は嫌いではありません。ですが、義母《はは》が睨むので度を過ごすことはありません」 「酔いますか」 「酒を飲めば酔います。酔うために飲むのかも知れません」 「酔うとどうなるのですか」  無邪気な問い掛けをした龍之進に喜六は苦笑して鼻を鳴らした。喜六は龍之進より三つ年上の十七歳である。実家は柳橋《やなぎばし》の料理茶屋だ。喜六は北町奉行所の臨時廻り同心古川|庄兵衛《しようべえ》の家に養子に入った男だった。面長《おもなが》の整った顔立ちをしている。きれいな|ふた《ヽヽ》皮眼《かわめ》は真摯《しんし》な色を帯びていた。義父の庄兵衛は、その眼に魅了されて喜六を養子に迎えたのかも知れないと龍之進は、ふと思う。 「そうですね。酒に酔うと身体がほてり、気持ちが大きくなります。ほどほどの量でしたら、酒は身体にいいと思います」 「百薬の長と言いますからね」 「そうです。ですが、人は弱いもので、つい量を過ごして二日酔いとなるのです」 「拙者も酒飲みになるのかな」  龍之進は独り言のように呟《つぶや》いた。 「不破さんの息子ですから立派に酒飲みの素質はありますよ」  喜六は短い月日の間に龍之進の父親の資質をすっかり飲み込んでいるらしい。 「やだなあ」  眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた龍之進に喜六は愉快そうに笑った。その時、塀に取り付けられている通用口が重く軋《きし》んだ音を立てた。  二人は慌てて近くの路地へ入って姿を隠した。やがて袴《はかま》の股立《ももだ》ちを取り、番傘を差した男が通用口を抜けて外に現れた。高足駄《たかあしだ》がバシャバシャと路上の雨水を撥《は》ね飛ばす。表通りは少し傾斜になっているようで、雨は低い方へ小川のように流れていた。  番傘に隠れて男の顔はわからなかったが、傘を差していない手には太い大根が無造作に握られていた。この雨の中を大根を携えてどうするのだろうと龍之進は思ったが、喜六は、「次郎衛です」と、低い声で言った。 「大根を持ってどこへ行くつもりでしょうか」  龍之進は次郎衛よりも大根が気になった。 「わかりません。後をつけますか?」  喜六は龍之進が次にどうするのかを訊《たず》ねた。  自分より年上のくせに、喜六はそのような時、決まって龍之進の指示を求める。それは喜六の父親の助言によるものかも知れない。仲間に、いちいち意見を仰《あお》げとでも言われているのだろう。 「是非!」  龍之進は張り切った声で応えた。二人は笠から雨の雫《しずく》をしたたらせながら次郎衛の後を追った。  次郎衛は南割下水《みなみわりげすい》沿いに本所|御竹蔵《おたけぐら》の方へ向かった。六尺近い背丈は歩幅も広い。ぐいぐいと進んでいく。後を追いかける二人も容易ではなかった。  龍之進は、以前に両国広小路で喜六に声を掛けた無頼派の一人のことを思い出した。あれが恐らく次郎衛だったのだ。  御竹蔵の通りに出ると次郎衛は南に折れ、亀沢《かめざわ》町の馬場の横の小路に入った。 「どこまで行くつもりでしょうか」  龍之進は小走りに歩みを進めながら喜六に訊いた。 「あの小路は武家屋敷が固まっている所ですが、もう少し行くと横網《よこあみ》町になります。大根を抱えているので、もしかしたら、その近辺の友人を訪ねるつもりかも知れません」 「横網町に無頼派の仲間はいるのですか」 「さあ、それは聞いておりませんが」  小路は御竹蔵の建物の形に沿って鉤形《かぎがた》に曲がっていた。後をつける二人にとっては好都合だった。所々で身を隠すことができた。  だが、次郎衛は一度も振り返らなかった。  恐らく、二人がつけていることには感づいていないのだろう。もっとも、日中の次郎衛は、つけられて困るようなことはしないので、辺りに気を配る必要もなかったのだが。  やがて、喜六の言ったように次郎衛は横網町に出た。商家の家並《やな》みが続く通りを回向院《えこういん》の方角へ進んだが、その途中で|くいっ《ヽヽヽ》と脇へ曲がった。 「古川さん、早く、早く」  龍之進は後に続く喜六を急《せ》かした。  次郎衛が向かったのは、とある裏店《うらだな》の門口《かどぐち》だった。千社札《せんじやふだ》が幾つも貼られている門口の向こうに油障子の長屋が並んでいた。  次郎衛は、その一つに入って行った。 「誰の家でしょう」  龍之進が訊いても、喜六は、「さあ」と首を傾《かし》げるばかりで埒《らち》が明かなかった。  裏店は雨のせいでもなく、ひっそりと静まり返っていた。井戸の傍《そば》にある水桶には雨水が溜《た》まっていた。  龍之進は次郎衛が入って行った油障子に眼を凝《こ》らした。そこに誰が住んでいるのだろうか。大根はきっと手土産のつもりだろう。  いや、大根が手に入ったから、この雨の中をわざわざ届ける気になったのではないだろうか。汁の実《み》にでもしろ、ということか。  龍之進には、そこに住んでいる者のささやかな暮らしぶりが察せられた。  次郎衛はなかなか出て来なかった。どうやら、上がり込んでいるらしい。もっとも、この雨では、相手もすげなく追い返すことはできまいと思われた。  喜六は龍之進の表情を盛んに窺《うかが》う。ずっとここにいるのか、それとも本日はこれで引き上げるのかと。 「戻りますか」  龍之進は業を煮やして、ようやく言った。  これから奉行所に戻って日誌を書かなければならない。二人には、あまり時間がなかった。 「そうですね。ここの住人のことは後でもわかりますから」  喜六はあっさりと相槌《あいづち》を打った。  帰る途中で喜六の実家に立ち寄ると、喜六の母親は二人に蕎麦を振る舞ってくれた。小腹が空いていたので、龍之進には大層うまく感じられた。  奉行所に戻る頃には、雨は止み、西の空がうっすらと朱《あけ》に染まっていた。 「明日は宿直ですね」  喜六は嬉しそうに言った。見習い組の六人を揃って宿直させるよう取り計らったのは、見習いの指導を仰せつかった与力見習いの片岡《かたおか》監物《けんもつ》だ。そろそろ務めに倦《う》んでいた頃だったので、宿直は純情派にとって恰好の気分転換だった。      三  月番の奉行所は大門《おおもん》を夜中でも開いて市中の人々の訴えを受け付ける。  よほどのことがない限り、夜中の訴えというものはないのだが、万一に備えて奉行所は宿直の者を置いている。その万一の時は奉行所内に役宅がある町奉行に知らせる手はずになっている。  純情派は弁当持参で意気揚々と宿直に就き、久しぶりに皆で語り明かそうと楽しみにしていた。しかし、それは甘い考えだった。  片岡監物は古い裁許帖《さいきよちよう》を宿直室の机の上に山と積んだ。何んでも宝暦《ほうれき》年間(一七五一〜一七六四)のものだそうだ。紙は変色して破れが目立つものや、綴《つづ》り糸が弱っているものもあった。それを一晩掛けて補修せよということだった。純情派は一様に落胆の吐息をついた。 「一晩だなんて絶対無理ですよ」  橋口|譲之進《じようのしん》は、さっそく不平を洩らした。 「すべて書き写せと言うのではない。破れや紙魚《しみ》が目立つ箇所を裏から紙を貼って補修するのだ。また綴り糸が弱っているものも取り替えろ。なに、六人でやれば雑作《ぞうさ》もないこと」  監物はあっさりと言って自分の用部屋に引っ込んだ。監物も与力見習いという立場なので、色々と上から雑用を押しつけられていた。それに加えて見習い同心の指導となれば息をつく暇もない忙しさだ。新妻|美雨《みう》と水入らずで過ごす時間も少ない。  純情派は天神机を|コ《ヽ》の字形に並べ、向かい合わせに三人ずつ座り、残った一つには裁許帖を置いた。修理ができたものは横に置くことにした。  紙、糊、鋏《はさみ》、目打ち、針、糸、それに硯《すずり》に筆を用意して、各々分担で仕事をした。龍之進は綴り糸の弱っているものを取り外す作業を受け持った。糸を外すと、横に座っている緑川|鉈五郎《なたごろう》へ回す。鉈五郎は破れや紙魚の部分に裏から紙を貼って補修する。字の掠《かす》れたものには筆を入れる。最後は喜六が新しい綴り糸で製本するのだ。喜六はどこで覚えたのか、目打ちを使って製本する手際がよかった。一方、向かい合う机には橋口譲之進、西尾|左内《さない》、春日《かすが》多聞《たもん》が同様に仕事を進めていた。 「何十年も前の裁許帖を後生大事にするとは時代遅れもいいところだ」  鉈五郎も仕事に飽きてくると不平を洩らした。 「しかし、お奉行がお裁きをする際は前例に当たるのがもっぱらなので、古い資料でも保存しておく必要があるのです」  眼鏡を掛けた西尾左内が応えた。左内は近眼なので、細かい作業をする時や本を読む時は眼鏡を使用する。 「何が役に立つか。宝暦二年(一七五二)壬申、二月三日。火事場にて野次馬行為をした咎《とが》にて、無宿者《むしゆくもの》、彦次《ひこじ》三十六歳に敲《たた》きの刑を処す、ってどういうことよ」  鉈五郎は呆れたように裁許帖の一文を読み上げて言う。 「え、本当ですか」  龍之進は驚いて鉈五郎の手許《てもと》を覗き込んだ。 「その前に火消しの邪魔になるということで、野次馬行為を禁止する触《ふ》れが出たのでしょう」  左内はさして驚きもせず、裁許帖の事件について分析する。 「ま、時代とともにお裁きの内容も変わるということだ。今どき火事場の野次馬を捕らえたら、小伝馬町の牢屋敷は人で溢《あふ》れ返るわな」  譲之進はつまらなそうに綴り糸を鋏で切りながら応えた。 「や、こっちはもっとすごい。宝暦四年(一七五四)甲戌、十一月十日。京橋呉服屋|尾張屋治兵衛《おわりやじへえ》、町触れを知らなかった廉《かど》で罰金刑だ」  春日多聞が素頓狂《すつとんきよう》な声を上げた。 「町触れを知らなかっただけで……」  龍之進も呆れた。 「それもですね、市中の者に町触れを周知徹底させようという奉行所の苦肉の策だと思いますよ」  左内がまた口を挟んだ。 「左内、おぬし、この裁許帖に、すでに目を通したのか」  譲之進は疑わしい様子で訊く。 「まあ、一応」  左内は涼しい顔で応えた。 「江戸に町奉行所が創設されてから、たかだか二百年余りです。その間の試行錯誤は数知れませんよ。所詮、人間のやることですから」  左内は何も彼《か》も承知しているという表情で続けた。 「天は二物を与えずとは、よく言ったものだ。剣は|へなちょこ《ヽヽヽヽヽ》でも、左内は、これこのように裁許帖の内容に精通しておる。全く大したものだ」  鉈五郎は皮肉な調子で言った。 「緑川さん、西尾さんのことを褒《ほ》めているのですか。それともけなしているのですか」  龍之進は詰《なじ》る口調で訊いた。 「むろん、おれは褒めているのよ。のう、左内」  鉈五郎の言葉に左内は返事をしなかった。  一刻ほど作業を続けた後で小休止となった。  監物が差し入れてくれた菓子を頬張りながら、鉈五郎はふと思い出したように、「ところで無頼派の動きはどうだ」と、誰にともなく訊いた。  龍之進と喜六はそっと顔を見合わせた。 「とり敢えず、連中の身許をはっきりさせる必要があるのですが、六人の内、素性が知れているのは四人だけで、後の二人はわかりません」  左内は煎餅《せんべい》を丈夫な歯でぱりりと噛んでから応えた。 「西尾さん、四人もわかっているのですか。拙者は薬師寺次郎衛しかわかっておりませんが」  龍之進は|つっ《ヽヽ》と膝を進めて訊いた。他の者も左内の地蔵のような顔を見つめた。左内は湯呑の番茶を啜《すす》ると、おもむろに口を開いた。 「むろん、四人の内の一人は首謀格の薬師寺次郎衛です。わたしは本所見廻りの際に、次郎衛の家の近辺で、武家の次男、ないしは三男がいないかを探りました。辻番《つじばん》に訊ねると、あっさり教えてくれましたよ。その三人は手習所と町道場が次郎衛と一緒だったので、これは間違いないだろうと思われます。辻番は、まさか噂の無頼派が奴等だとまでは気づいていないようでしたが」 「よくやった、左内。しかし、なぜそれを早く言わん」  譲之進が重々しい口調で言うと、多聞は呆れた顔で見た。自分では何もしないくせに、文句を言えた義理かという表情だった。 「申し訳ありません。わたしも色々と忙しかったものですから」  左内は悪びれた顔で言い訳した。 「それで、その三人の名は?」  龍之進は二人に構わず左内の言葉を急かした。左内は懐《ふところ》から書き付けの紙を取り出し、外していた眼鏡を掛けた。 「ええい、まどろっこしい」  鉈五郎はいらいらして左内の書き付けを奪い取った。多聞は、今度は鉈五郎に呆れ顔を向けた。 「志賀虎之助《しがとらのすけ》、十八歳。幕府|小普請《こぶしん》組、志賀|善兵衛《ぜんべえ》の三男……小普請組とは無役だな。それから長倉|駒之介《こまのすけ》、十六歳。旗本三千石、長倉|刑部《ぎようぶ》の三男。こいつが無頼派の金蔵《かねぐら》か。杉村|連之介《れんのすけ》、十七歳。幕府|小姓組番頭《こしようぐみばんがしら》、杉村|三佐衛門《さんざえもん》の次男。こいつも旗本だな。それに次郎衛か……」  鉈五郎を取り囲むようにして純情派は書き付けの名に見入った。 「左内、これだけ調べて、後の二人がどうしてわからん。その二人も手習所か町道場に繋《つな》がっておろう」  鉈五郎は不思議そうに左内に訊いた。 「もちろん、調べましたよ。しかし、どうしても該当する人物が現れませんでした。これは、後の二人が武家ではなく町家の出ではないのかと、わたしは思っております。そう、以前の古川さんのように」  左内がそう応えると、喜六は居心地の悪い表情で長い睫毛《まつげ》をしばたたいた。 「そうなのか?」  鉈五郎は確かめるように喜六に訊いた。 「それはわかりません。わたしが無頼派にいた頃は、町家の出はわたしだけでしたから」  喜六の言葉に鉈五郎は腕組みして低く唸《うな》った。 「昨日、古川さんと本所見廻りに出た時、次郎衛は横網町にある裏店に向かいました。もしかして、後の二人の内の、どちらかの家だったのかも知れません」  龍之進は前日のことを他の者に伝えた。 「裏店とな? 無頼派の連中は旗本、御家人の息子達ではなかったのか」  譲之進が的外れなことを言った。 「だから、後の二人は町家の身分ではないかと予測しての話だ。町家の者なら裏店住まいをしていたところで不思議はない。ちゃんと話を聞け」  多聞がいらいらした表情で譲之進を詰った。 「すまん、すまん」  呑気《のんき》な譲之進に皆んなは苦笑した。 「龍之進、本所見廻りはもう仕舞いか」  鉈五郎はふと思い出したように訊いた。 「いえ、明日は非番ですが、明後日にもう一度見廻りがあります」 「ならば、帰りにでも、その裏店を探れ。もしも同じような年頃の男がいたら、それで決まりだ」 「はい」  応えて、喜六を振り向くと、喜六も目顔で肯《うなず》いた。横網町に該当する男がいれば、もう一人の素性もおっつけ知れるだろう。無頼派の全員の名が割れたら、純情派の次の行動に弾《はず》みがつくというものだった。  裁許帖の補修は遅々《ちち》として進まなかった。  朝になっても半分ほどしか仕上げることができなかった。無理もない。十三年間もの裁許帖である。幾ら何んでも一晩で片がつくはずはない。監物もそれは予想していたようで、残りは次回の宿直の日に回すことで純情派を解放してくれた。  龍之進は朝の申し送りを済ませると、八丁堀の組屋敷へ欠伸をしながら戻った。徹夜明けの眼に朝陽がやけに眩《まぶ》しかった。  海賊《かいぞく》橋を渡る時、龍之進は伊三次と九兵衛に出くわした。その時、龍之進は盛大に欠伸を洩らしたところだった。 「坊ちゃん、昨夜は宿直だったそうですね。ご苦労様でございやす」  伊三次は龍之進の労をねぎらった。うむ、と応えたが、九兵衛が自分を小意地の悪い眼で見ているのが気になった。九兵衛の欠伸を叱ったことが俄《にわ》かに思い出された。九兵衛は、お前だって欠伸をするじゃないかという顔をしていた。 「おれは宿直明けで寝ていないんだ」  龍之進は言い訳がましく九兵衛に言った。 「坊ちゃん、おいら、何も言ってませんよ。気の回し過ぎです。お務め、ご苦労さんです」  小鼻を膨《ふく》らませて九兵衛は応える。してやったりの表情が憎らしい。 「お前は最近、生意気だ。少し気をつけろ」 「あいすみやせん。親方、そろそろ行きましょう。ここで油を売っていては日が暮れます」  九兵衛は生意気に伊三次を急かした。 「そ、そうだな。坊ちゃん、ゆっくりお休みになって下さいやし」 「うむ」  応えて通り過ぎたが、九兵衛と伊三次が自分のことで何やら話しているのが、また気になる。九兵衛は機嫌のよい笑い声を立てた。  龍之進は振り返り、「朝から往来で、高い声で笑うな」と怒鳴った。だが九兵衛は、弾《はじ》けたように、さらに笑った。  絞《し》め殺してやりたい気分だった。      四  家の玄関に入ると、母親の|いなみ《ヽヽヽ》が慌てて出かけるところだった。後ろから妹の茜《あかね》の盛大な泣き声が聞こえた。 「お出かけですか」 「ええ、ちょっと片岡様の所へお届け物をしに。茜に後を追われるのでよそ見している間に出かけようとしましたら、運悪く見つかってしまいました。龍之進さん、ちょうどよいところでした。少しお守《も》りをして下さいまし」 「ええっ? おれは宿直明けで寝ていないのですよ」 「わかっております。でも、どの道、茜のあの様子ではゆっくり寝られませんでしょう。だから、お願い」  いなみは龍之進に向かって掌《て》を合わせた。 「もう……」  龍之進はぷりぷりして雪駄《せつた》を脱いだ。 「ほらほら、大好きなお兄様のお戻りですよ。お嬢様、お帰りなさいとおっしゃいまし」  女中のおたつが泣いて暴れる茜に言った。  おたつに抱かれていた茜は振り向き、つかの間、泣き声を止めた。頬に涙のしずくを|ぽっちり《ヽヽヽヽ》とつけている。 「おーま……」  茜はお兄様と言っているつもりなのだ。 「泣いてる子は誰かな。茜かい」  そう訊くと、大きくかぶりを振った。茜は龍之進を慕っていた。いの一番に「おーま」という言葉を覚えた。 「お願い致します」  おたつは、やや邪険《じやけん》な仕種で茜を龍之進に押しつけると、ほっと安心した顔になった。  おたつは後片づけの途中だったらしく、慌てて台所へ戻ってゆく。龍之進はおたつの背中に声を掛けた。 「おたつ、母上は片岡さんの家に届け物をするとおっしゃっていたが、何かあったのか」 「ええ、それはもう。美雨様がご懐妊されたのですよ。奥様も大層、お喜びで、さっそく魚屋さんから鯛を取り寄せてお届けすることにしたのですよ」 「ええっ?」  美雨に子供ができる。それは龍之進にとって青天の霹靂《へきれき》だった。監物の顔がふと脳裏に浮かんだ。夫婦となったからには子ができても不思議はないのだが、その時の龍之進にはなぜか厭《いと》わしさが先に立った。  男女のひめごとを意識したせいだろう。ぽっと顔も赤くなった。 「おーま、おんも、おんも」  茜は外へ行こうと龍之進に催促する。 「おんもはお日様がカンカンで暑いぞ」 「いやッ、おんも」  龍之進は仕方なく茜を抱いて外に出た。  午前中の組屋敷内はひっそりと静かだった。  龍之進は通りへ出た。茜はおとなしく外の様子を眺めている。  しゃらしゃらと涼し気な音を立てて風鈴売りが通り過ぎる。触れ声を出さなくても商売ができるのが風鈴売りのよいところだ。日除けの笠を被《かぶ》って荷車を引く風鈴売りは唇を引き結んで静かに歩みを進める。白茶けた路上に風鈴売りの影が黒々と濃い。風鈴売りの男は無口な性格なのかも知れない。龍之進はつまらないことを考えた。  茜に風鈴を買ってやりたかったが、龍之進には余分な持ち合わせがなかった。手を伸ばした茜に、「母上に買って貰いなさい」と、龍之進は言った。 「おやおや、龍之介君」  元服前の名前で呼ばれ、声のした方を振り向くと、八丁堀の町医者、松浦《まつうら》桂庵《けいあん》が弟子の大河内文平《おおこうちぶんぺい》と一緒に歩いて来るところだった。 「お早うございます」  龍之進が挨拶すると、桂庵は温顔をほころばせ、茜の手を取った。茜は邪険にその手を払った。 「これ、先生に失礼だぞ。ちゃんとご挨拶しないか」  龍之進は桂庵の手前、茜をやんわりと叱った。 「なに、まだ挨拶など無用じゃ。茜お嬢ちゃんは元気で何よりだ。この間は伊三次の倅《せがれ》が疱瘡《ほうそう》に罹《かか》って大変だった。茜お嬢ちゃんは大丈夫かな」 「今のところは大丈夫のようです」 「ほうほう、それは何より。だが、ひと回りも年が離れているきょうだいでは龍之介君も何かと大変ですな」 「どうしてですか」  桂庵の言葉がよく呑み込めなかった。 「いや、ご両親に何かあった時は龍之介君が茜お嬢ちゃんを養育しなければならぬ責任があるからですよ」 「先生、縁起でもないことはおっしゃらないで下さい。今、こいつを押し付けられたら、拙者は途方に暮れるばかりで何もできませんよ」 「いや、余計なことを言うてすまなかった。近頃、親が早死にして幼い子供ばかりが残される話をよく聞くもので、つい心配になったまでのこと。龍之介君のご両親に限っては、そんな心配もござらんだろう」  桂庵は取り繕《つくろ》うように言った。 「先生、拙者、元服してから龍之進と改めましたので、以後、そのようにお願い致しまする」  龍之進がそう言うと、弟子の文平は小さく苦笑した。文平は柳原《やなぎはら》の医学館で修業をした二十歳の医者である。桂庵を慕って弟子入りしてから、まだ間もない。龍之進の父親の話では、なかなか優秀な男らしい。いつもにこにこして感じのよい若者だった。  文平は微笑を浮かべて、「先生には何度も申し上げたのですが、何しろ龍之進さんを赤ん坊の頃から知っていらっしゃるので、なかなか新しいお名前になじめないようです」と、桂庵を庇《かば》うように言った。 「年を取ると、もの覚えが悪くて困ります。以後気をつけます。龍之介君……いや、龍之進君。それではまた」  桂庵は穏やかに笑って引き上げて行った。  桂庵の背中が以前より小さくなったように感じられた。桂庵が年を取ったのか、それとも自分が大人になりつつあるからそう見えるのか、龍之進にはわからない。  万一の時には茜を養育しなければならないと言った桂庵の言葉が妙に心に残った。今までそんなことは考えたこともなかった。  龍之進にとって両親は傍にいるのが当たり前だった。だが、もしも父親がお務めの最中で命を落としたとしたら、自分は茜を養育する責任を負わされるだろう。不幸にも殉職した同心の話は龍之進もよく聞くことだ。  また、母親が不意の病《やまい》で亡くなったとしても、それは同じことだ。おたつがいるといっても、何も彼《か》も任せる訳にはいかないだろう。  両親が健在であるのは、それだけで子にとってはありがたいことなのだ。龍之進が、そのことを改めて強く感じたのは、その夜、八丁堀で起きた火事を見てからだった。  その夜、五つ(午後八時頃)過ぎだったろうか。床に就こうとしていた龍之進の耳に摩《す》り半鐘《ばんしよう》が聞こえた。至近距離の火事だと思った龍之進は寝間着のまま外へ飛び出した。  野次馬が南へ走って行く。龍之進も地蔵橋を渡って七《しち》けん町の埋立地の方角へ走った。  火は七けん町の火の見櫓のすぐ傍にある商家から出ていた。そこは「亀屋丹後《かめやたんご》」という老舗《しにせ》の菓子屋だった。季節ごとに様々な菓子を売り出して八丁堀の人々に重宝されている店だった。  町火消し「百組」の菱形の纏《まとい》が亀屋丹後の屋根に翻《ひるがえ》っていた。何んでも作業場の竈《かま》から出火したということだった。古い建物だったので火の回りが存外に早く、家族が気づいた時、辺りは火の海だったらしい。  火消し連中は鳶口《とびぐち》を使って建物を壊し始めた。類焼を防ぐためだった。  火事は一刻後に消えたが、焼け跡から主《あるじ》とお内儀《かみ》、住み込みの奉公人の死体が発見された。嫁に行っていた長女が日本橋から駆けつけて来たが、長女は腰を抜かして歩けなくなり、路上にぺたりと座ったまま涙に咽《むせ》んでいた。  亀屋丹後の長男は十六歳の米吉《よねきち》で、米吉は京橋の菓子屋へ修業に出ていて難を逃れた。  米吉の下の七歳になる次女も女中と一緒に逃げて助かったが、亀屋丹後の子供達は一晩の内に両親をいっぺんに亡くしてしまった。  米吉は泣いている姉と妹を長男らしく慰めていたが、その顔は蝋《ろう》のように白かった。  米吉はこれから妹を育てていかなければならないのだ。昼間の桂庵の言葉が切実に甦《よみがえ》った。  亀島町に戻る龍之進の足取りは重かった。  これからあのきょうだいはどうなるのだろうか。妹は一時、姉の所へ身を寄せるにしても、姉もそう長くは妹を手許に置くことはできないだろう。亀屋丹後を再建する器量は今の米吉にはない。それが叶《かな》うのは十年先か、二十年先か。  人生は長い。龍之進は米吉の将来に自分のそれを重ね合わせて深いため息をついた。      五  翌日の空は曇っていた。本所からの帰りは雨になるかも知れないと龍之進は思った。  奉行所の申し送りでも昨夜の火事の話題が出た。市中取り締まりに出る鉈五郎と左内は人々に火の用心を呼び掛けろと命じられた。  多聞と譲之進も神田界隈の取り締まりに出る。  龍之進と喜六は日本橋から小舟を使って本所へ向かった。 「帰りは横網町へ行くのですね」  喜六は龍之進に念を押した。いつものことなのに龍之進は妙に腹が立った。 「古川さん、余計なことを申しますが、わかり切ったことを、くどくどと言わないで下さい。いらいらします」  龍之進の言葉に喜六は僅かに顔色を変えた。 「我等は見習い同士。拙者にいちいち意見を求めなくとも古川さんが判断できることではありませんか。まして古川さんは拙者より三つも年上で、剣の腕もある」  龍之進は喜六の顔を見ないで続けた。 「申し訳ありません……」  喜六は低い声で謝った。 「別に拙者は古川さんを叱った訳ではありませんよ。もう少し、自分の考えを打ち出してもいいと思ったからです」 「以後、改めます」  喜六に自分の気持ちが伝わらない。これではまるで意地悪をしているようだ。龍之進は盛んに吐息をついた。  両国橋の船着場で舟を下りると、二人は本所見廻りの与力、同心が詰める番所へ向かった。  本所は古くは本庄《ほんじよう》と称していたが、天和《てんな》三年(一六八三)に本庄一円は幕府の領地として召し上げられたという。再び本庄が市中の人々に戻されたのは元禄《げんろく》元年(一六八八)になってからだ。この時から本庄は元の所へ戻ったということで本所と呼ばれるようになったのだ。  本所の嚆矢《こうし》を見廻りの同心は滔々《とうとう》と龍之進と喜六に語った。  本所見廻りは本所の水陸の取り締まりを受け持つ部署だが、その範囲は限られていた。  本所は竪川より北、横川より西に町家が密集しているので、取り締まりも主に、その中で行なわれていた。  龍之進と喜六は本所廻りの同心に伴われて、吾妻《あづま》橋の袂《たもと》にある中《なか》ノ郷《ごう》竹町の青物|河岸《がし》を見学し、その後に竹町(駒形とも言う)の渡しの様子を眺め、それから北割下水に設《しつら》えてある長さ三百五十四間、幅二間の土手を見学した。土手は横川通りの中ノ郷横川町の人々が築いたという。その付近は土地が低いので洪水になりやすいためだった。  また、この近辺には瓦《かわら》職人が多く集まっていて、二人が訪れた時も瓦を焼く白い煙が立ち昇っていた。  二人を案内してくれた本所見廻りの同心は滝川|恩次郎《おんじろう》という四十がらみの男だった。  同心にも様々な人間はいるが、滝川は何んとなく覇気《はき》に欠けているように見えた。本所見廻りという役目に倦んでいたのかも知れない。  同心は、一度役目に就いたら、よほどのことがない限り転勤はない。ついでに出世もなかったのだが。  滝川は昼刻になると二人に蕎麦を奢《おご》ってくれた。蕎麦を食べ終えると自分は番所に戻るので、お前達も奉行所に帰っていいと言った。  何んだか気が抜けた。蕎麦でお茶を濁されたような気がした。それでも二人は滝川に礼を述べて両国橋の方向へ踵《きびす》を返した。 「本所見廻りというのもどうかなあ」  喜六は独り言のように呟いたが、傍にいた龍之進の顔を見て、「いえ、こっちのことです」と、咳払いをして取り繕った。 「別に拙者のことならお気づかいなく。誰に洩らすこともありませんから」  龍之進は喜六を安心させるように言った。 「不破さんが、もっと自分の意見を述べよとおっしゃったので申し上げますが」 「はい……」 「本所見廻りを命じられるのはいやですね」 「………」 「つまらないことを申しました。忘れて下さい」 「いえ、拙者もいやですよ。拙者は、いずれ定廻りに就きたいと考えていますので」 「わたしも義父と同じ臨時廻りに就きたいと思っております」 「………」 「無理でしょうか」  喜六は言葉に窮した龍之進の顔色を窺《うかが》い、恐る恐る訊く。 「それは皆んなの前では言わない方がいいですよ」 「なぜですか」 「臨時廻りは奉行所で古参の同心が就くことになっております。定廻りと隠密廻《おんみつまわ》りを補佐する立場ですので。古川さんが臨時廻りになる前に定廻りか隠密廻りになる必要があります」  そう言うと、喜六は恥じ入って顔を赤くした。 「もの知らずで、あいすみません」 「奉行所内のことはすぐに覚えます。それほど悲観することはありません」  龍之進は朗らかに応えた。 「今日の不破さんはご機嫌ななめで、わたしはどうしたらよいのかわかりませんでした」 「すみません。昨夜の火事が少し胸にこたえていたものですから」  龍之進は不機嫌の理由を明かした。 「亀屋丹後の?」 「ええ。残されたのが十六歳の長男と七歳の妹でした。姉もいるのですが、すでに嫁いでおります。拙者はその長男の気持ちを考えるといたたまれません。拙者にも妹がおりますので」 「なるほど」  喜六はようやく納得したようだ。 「亀屋丹後の息子は両親が亡くなってしまったので、これからは、違う生き方になるのでしょうね。恐らくは自分が考えていたのとは全く別の苦労を強《し》いられるかも知れません」  喜六は気の毒そうに続けた。 「その通りですよ、古川さん。明日は何が起きるか知れたものではありません」 「全く」  相槌を打った喜六の足は自然に横網町の界隈に入っていた。 「行くのですか」  そう訊くと、喜六は悪戯《いたずら》っぽい顔になり、「行かないのですか」と、逆に訊き返した。  すっかり主導権を奪われてしまった。龍之進は余計なことを言った自分を悔やんだ。  裏店は以前に訪れた時と同じように、ひっそりとしていた。裏店の住人のことを知るため、二人は近くの小間物屋に入った。  その店は六十がらみの老婆が店番をしていた。 「すみません。ちょっとお訊ねしたいことがあるのですが」  喜六は気軽に声を掛けた。そんなところは商家の生まれで如才がない。龍之進なら気後れを覚えて口ごもってしまうというものだ。 「はい、何んでござんしょう」  年の割に艶《つや》っぽい声が老婆の口から聞こえた。恰好も小ざっぱりとしている。 「すぐそこの裏店で、こちら側の三軒目にはどなたが住んでいるのですか」 「こっち側? 三軒目? こうっと|おしか《ヽヽヽ》さんのことでしょうかねえ」  老婆は思案顔で応えた。 「そのおしかさんの所に十七、八の若者はおりませんか」  龍之進は意気込んで口を挟んだ。 「いえいえ、おしかさんはお嬢様と一緒にお暮らしですよ。お嬢様は、おしかさんが奉公していたお家の方だそうです。どういう事情か、一年ほど前にこちらに引っ越していらしたんですよ。お二人で着物の賃仕事をしながら細々《ほそぼそ》とお暮らしですよ。うちの店にも糸や針を買いに来て下さいます。そうそう、お嬢様は、とてもおきれいな方ですよ」  老婆の言葉に龍之進はがっかりした。裏店の住人は、本所無頼派の仲間ではなかった。次郎衛が懇意にしている娘らしい。 「お嬢様に何か?」  老婆はつかの間、笑顔を消して心配そうな表情になった。 「いえ、我等は、そのお嬢様とやらに用事はありません。時々訪ねてくる薬師寺次郎衛という若者のことを、ちょっと知りたいだけです」  喜六は老婆の不安を取り除くように、さり気なく応えた。 「体格のよいお武家のお坊ちゃんのことですか」 「そうです。ご存じですか」 「お坊ちゃんのお母様が、時々、おしかさんに仕事を頼んでいらっしゃるので、お坊ちゃんはお使いに見えるのですよ」 「なるほど。いや、ありがとうございます」  喜六は、にこやかな笑顔で礼を言った。 「お坊ちゃんに何かございましたか」  老婆は抜け目なく訊く。町内の噂はそこから拡《ひろ》がるのかも知れないと龍之進は思った。  あまり詳しく訊いては墓穴を掘って次郎衛に気づかれる恐れもある。それは喜六も感じていたようで、「いえ、ご心配するようなことは何もありません」と、老婆の問いかけを躱《かわ》した。  小間物屋から出ると、喜六は、「当てが外れましたね」と龍之進に言った。 「その娘、次郎衛が無頼派だってことを知っているのかな」 「さあ、どうでしょう。わたしが次郎衛だったら明かしませんが」 「今は女中の世話になりながら細々と暮らしてる娘だなんて……」 「きっと、両親が何かの事情で亡くなられたのでしょう。次郎衛はそれに同情しているのかも知れません」 「同情だけ?」 「どうでしょう。そこまではわかりません。ま、次郎衛は、遊びは派手ですが、こと、女に関しては存外に|うぶ《ヽヽ》なので、深い仲ではないと思います」  喜六は含み笑いしながら応えた。その表情は大人びていた。 「次郎衛はその娘と一緒になるつもりなのでしょうか」 「次郎衛はいずれ養子に行く立場ですから、それはないでしょう」 「しかし、捜索は振り出しに戻ってしまった。皆んなに相談して、これからどうするか決めなければなりませんね」 「そうですね」  無頼派の残りの二人は、いったい何者で、どこに住んでいるのだろうか。それを突き止める手立てがもはや、見つからなかった。  小間物屋から出て、幾らも歩かない内、二人は湯屋帰りらしい小桶を抱えた娘と老婆に出くわした。夕方になる前に女達は湯屋に行って戻って来たのだろう。  娘は、すれ違いざま、龍之進を見て、はっとした表情になった。怪訝《けげん》な思いで龍之進も娘の顔をじっと見た。  その瞬間、龍之進の胸がどきりと大きな音を立て、うなじに痺《しび》れを感じた。それは龍之進が通っていた私塾の師匠、小泉《こいずみ》翠湖《すいこ》の娘の|あぐり《ヽヽヽ》だった。あぐりは襟《えり》に黒八《くろはち》を掛けた紺絣《こんがすり》の着物に臙脂《えんじ》色の前垂れをしていた。その恰好は町家の娘としては珍しくないものだったが、龍之進は派手な着物のあぐりしか知らなかったので、今の暮らしぶりがおのずと偲ばれ、胸が塞《ふさ》がった。  小泉翠湖は金貸しの勾当《こうとう》を殺した咎《とが》で死罪の沙汰となった。あぐりはそれから家に奉公していた女中と暮らしていたのだろう。 「龍之介さん?」  細い声が聞こえた。龍之進は固唾《かたず》を飲んで肯《うなず》いた。元服して名前が変わったことを、あぐりは知らない。それほど長い間、あぐりと会っていなかった。あぐりは龍之進の恰好を見て、「お役所にお務めするようになったのですね」と訊いた。 「はい……」 「おめでとう存じます」 「いえ……」  喜六は怪訝な表情をしていたが、その時は何も言わなかった。黙って二人のやり取りを見つめていた。女中は龍之進のことをよく覚えていなかった。あぐりが丁寧に説明してようやく納得した顔になった。 「わたくし、お恥ずかしいのですが、今はすぐ近くの裏店でおしかと一緒に住んでおりますの。龍之介さん、よろしかったら、今度お遊びにいらして下さいまし」  そういうことを言うあぐりが龍之進には解《げ》せなかった。どうせなら知らぬ顔で通り過ぎてくれた方が龍之進には気が楽だったろう。 「ありがとうございます」 「お近くにいらした時は、きっといらしてね」  あぐりはそう言うと、頭を下げ、女中と一緒に龍之進の前から去って行った。  龍之進は、あぐりの家の女中が、おしかだったと、突然、思い出した。すると、すべてが合点した。  何んという偶然、何んという皮肉なめぐり合わせだろう。龍之進は唇を噛み締めて思った。恐らく、次郎衛が大根を届けた先はあぐりの住まいだったのだ。それに間違いない。  次郎衛はあぐりを慕い、そしてあぐりも次郎衛のことを憎からず思っている……いるはずだ。  だが、次郎衛とあぐりに明るい未来はない。  次郎衛は、いずれ養子に行く宿命で、あぐりを妻に迎えるなど、できない相談だ。  どの道、あぐりと次郎衛に待っているものは別れしかないのだ。あぐりをそういう境遇に追い込んだのは自分だ、と龍之進は思う。  龍之進は翠湖が勾当を殺害したのを偶然に目撃していた。龍之進はそれを誰にも明かさないつもりだった。明かせばあぐりが不幸になると思ったからだ。龍之進は密かにあぐりへ思いを寄せていた。だが、髪結いの伊三次に諭《さと》され、とうとう事情を明かしてしまった。  あぐりは自分の父親を下手人にしたのが龍之進だとわかっているのだろうか。いや、わかっていたら優しく遊びに来いとは言えないはずだ。 「不破さん、あの娘は次郎衛が入って行った裏店の住人です」  喜六はあぐりが裏店に入って行くのを見届けると龍之進に言った。 「わかっております、とっくに……」 「あの娘は不破さんの知り合いだったのですね。少し厄介なことになりましたね」 「………」 「よかったら、あの娘のことを話して下さい」  喜六はおずおずと龍之進に言った。龍之進は空を仰いだ。額にぽつりと雫《しずく》が当たった。  辺りは暗くなり、さあっと雨になった。  二人は慌てて近くの商家の軒下に避難した。  濡れた肩先を拭いながら喜六は龍之進に応えを急かす眼になっている。 「あの人を今の境遇に落としたのは拙者です」  龍之進は白く煙る雨を見つめながら独り言のように呟いた。喜六はそれに対し、返事をしなかった。洟《はな》を啜るような短い息をついただけだった。      六  奉行所に戻り、龍之進は日誌を書いた。  喜六は何も喋らない龍之進の代わりに横網町に住んでいる者が無頼派の仲間でないことだけを皆に伝え、あぐりの話は端折《はしよ》った。  純情派は塞いでいる龍之進に、くどくどと理由を訊ねなかった。何かあったのだろうと、そっとしておいてくれた。その気遣いが龍之進にはありがたかった。いずれ、あぐりと次郎衛のことを話さなければならないとしても、その日だけはいやだった。一人で考える時間がほしかった。  龍之進は一番最後に奉行所を出た。道場にも行く気がしなかった。本降りになるかと思われた雨は途中でやんだ。だが、空は厚い雲で覆《おお》われたままだ。梅雨はいつ明けるのだろうと思う。気持ちまで重く、鬱陶《うつとう》しい。  龍之進は、のろのろと呉服橋を渡り、呉服町の通りへ入った。翌日は小石川の養生所へ行く予定になっていた。一緒に行くのは喜六に代わって皮肉屋の鉈五郎である。それにも気持ちは滅入る。  もの思いに耽《ふけ》りながら歩いていると、突然、「坊ちゃん」と、聞き慣れた声がした。  顔を上げると、九兵衛が伊三次の息子の伊与太《いよた》を背負って龍之進の前に立っていた。 「今、お帰りですか」 「うむ」 「お務め、ご苦労さんです」  九兵衛は定石通りの挨拶をした。 「お守りをしているのか」  龍之進はおざなりに九兵衛に訊いた。 「へい。おかみさんにお座敷が掛かったんで、親方が帰るまでお守りをしています」  伊三次の息子はおとなしい。茜とは大違いだ。龍之進が手を取ると嬉しそうに小粒の歯を見せて笑った。 「おとなしくて可愛いな」 「へい。人見知りもしやせん。どっちに似たんでしょうね」 「伊与太、お前、大きくなったら髪結いになるのか、それとも芸者になるのか」  冗談混じりに訊くと、九兵衛が声を上げて笑った。 「坊ちゃん、芸者はないでしょう」 「冗談の通じない奴だ。そんなことわかっている」  ぷりぷりして歩き出すと、九兵衛も一緒について来た。お守りに退屈していたらしい。 「今日は本所見廻りだったそうですね。雨ん中、大変でしたね」  九兵衛は阿《おもね》るように言う。 「ああ、大変だった。だが大変なのは、今日ばかりではない。毎日が大変だ。去年の今頃、こんな思いをするとは露《つゆ》ほども思っていなかった」  龍之進の言葉にため息が混じる。 「ですけど、坊ちゃんは不破様もお祖父《じい》様も同心ですから、同心の道へ進むしかないですよね」 「いかにも」 「お武家ってのも結構、きつい商売ですね」 「何を言うか」 「ま、仕事となったら、何んでも一筋縄《ひとすじなわ》じゃいきやせんが」  九兵衛は分別《ふんべつ》臭い表情で続けた。 「お前は、ずっと髪結いをするのか」 「そのつもりです」 「髪結いも一人前になるまでが苦労だ。一人前になっても株を買う銭がなけりゃ、床を構えられない」 「おいら、親方のように廻りの髪結いになろうと思っています。それで、八丁堀の旦那の仕事も手伝いたいんです」 「小者《こもの》になりたいということか」 「へい」  九兵衛は小鼻を膨らませて応えた。 「本当は坊ちゃんの小者になりたいんですけど、坊ちゃんはおいらを嫌っているから、それは無理でしょう」  九兵衛の言葉に龍之進は驚いて九兵衛の扁平《へんぺい》な顔を見つめた。 「おれがお前を嫌っているって? おれがいつそんなことを言った」 「だって、いつも邪険になさるじゃねェですか。だから……」 「勝手に決めつけるな。優しいことを言う者が自分を好きで、そうじゃない者が嫌っているとは限らぬ。父上と伊三次を見ろ。父上は年中、伊三次を怒鳴っているぞ。だが、気に入らぬ者を小者に抱える訳がない。父上は伊三次が好きなのだ。心底、心を許してもいるんだ」  九兵衛は納得したのか、そうでないのか黙って龍之進を見ている。 「九兵衛、おれは立派な同心になれると思うか」  龍之進は試すように九兵衛に訊いた。 「なれますよ。意地の強さは半端じゃねェですからね」  龍之進に嬉しさが込み上げた。見習いとなって初めて聞く褒め言葉でもあった。 「九兵衛、おれが本勤になったら、お前を小者に抱えてやる。頭も毎朝やらせる。だから、しっかり修業しろ」  龍之進は九兵衛にそう言った。九兵衛は顔をくしゃくしゃにして喜んだ。  佐内《さない》町の通りで龍之進は九兵衛と別れた。  海賊橋へ近道をするつもりで本材木町の小路へ曲がろうとした時、九兵衛の声が背中から覆い被《かぶ》さった。 「坊ちゃん、その道は行き止まりですよ」  はっと気づいたが、龍之進の足はすでに小路へ入っていた。いまさら、知らなかったとは言いたくなかった。同心は江戸の町を熟知していなければならない。監物が口|酸《す》っぱく言っていた言葉も思い出された。龍之進は振り向いて怒鳴った。 「わかっておる。こっちに用事があるんだ」  九兵衛は心配そうに立ち止まって見ている。  馬鹿な意地だとわかっていても戻りたくなかった。  狭い路地の両側は立ち腐れたような家が並んでいて、その内の何軒かは空き家だった。  さらに先へ進むと商家の塀にぶち当たった。  塀の前には不要になった空き樽や木箱が幾つか置かれていた。  どこか抜ける所はないものかと目を凝《こ》らしたが、無理だった。  龍之進は塀に背中を押しつけて、路地を振り返った。今出て行ったら、九兵衛がそれ見たことかと笑うに決まっている。  龍之進はつくねんとその場所に立っていた。  すると、行き止まりの路地が、そのまま今の自分を象徴しているような気になった。  あぐりの白い顔も甦《よみがえ》る。あの人をどうしたら倖せにできるのだろうかと思った。  庭の見える部屋で花を生けたり、琴を爪弾《つまび》いたりする暮らしに戻してやりたかった。  そのためには多くの金が必要だった。龍之進はその時、小泉翠湖の気持ちがよくわかった。掌中の珠《たま》のごとき娘のために翠湖は金が必要だったのだ。人を殺してまでも娘の倖せを守りたかったのだ。あの時、翠湖の気持ちが理解できたら、自分は決して翠湖の仕業を明かさなかったのではないだろうか。  しかし、今、それを悔やんで何んとしよう。  翠湖は死罪となり、あぐりは裏店住まいを強いられている。次郎衛に、あぐりを倖せにできる器量はない。大根を届けてやるぐらいが関の山だ。  貴様に何ができる。貴様は芝居小屋の屋根に上がって雄叫《おたけ》びを上げるだけの男だ、と、龍之進は次郎衛に怒りを募《つの》らせた。多分、それは嫉妬であったのかも知れない。  この次、と龍之進は思う。あぐりの倖せを阻《はば》む場面に出くわしたら、自分は命を賭けても守ってやろうと心に決めた。あぐりに許しを乞う唯一の方法は、それしかないように思えた。  だが、決心を固めた龍之進に九兵衛の声が再び聞こえた。 「坊ちゃん、だから言ったでしょう? その道は行き止まりだって」  路地の外で九兵衛は訳知り顔でこちらを見ている。  その道はどの道。龍之進は胸で独りごちた。  龍之進は奥歯を噛み締めると、外の通りへ戻った。九兵衛を一発殴らなければ収まりがつかない気がした。余計なことを喋るな。お前は一言多い。こうしてくれる!  九兵衛を殴ったら、少しは胸のつかえが下りるはずだ。龍之進は握り締めた拳《こぶし》に力を込めた。  だが、振り上げようとした拳は、ちょうど戻って来た伊三次の前に、だらしなく下ろされた。代わりに、「伊三次さん、話を聞いて下さい」と、龍之進は涙声で縋《すが》っていた。 「何かありやしたんで?」  真顔で訊いた伊三次に龍之進の思いがいっきに弾けた。堪えても堪えても、涙は龍之進の気持ちを裏切って盛大にこぼれた。 「お前ェ、何かしたのか」  伊三次は疑わしそうに九兵衛を見る。  慌てて九兵衛はかぶりを振る。涙で曇った龍之進の眼に、九兵衛の頬の肉が、ぶるっと震えて見えた。 [#改ページ]   君を乗せる舟      一  大川の川開きの頃から伊三次の息子の伊与太《いよた》はよちよちと歩き出した。  不破《ふわ》の娘の茜《あかね》に比べて伊与太の成長は遅いような気がしていたので、伊三次は、ほっと安心した。茜は伊与太より半年ほど前に生まれているから、|はいはい《ヽヽヽヽ》するのも、つたい歩きも伊与太より早いのは当たり前なのだが、それにしても茜はしっかりした赤ん坊だった。いや、しっかりしているを通り越している。起きている間は少しもじっとしていないし、言うことも聞かない。おむつを替えようとする女中のおたつの手をすばやく躱《かわ》して逃げ回る。その速さたるや驚くほどだった。そんな茜を見ていると伊三次は、つい自分の息子と比べてしまう。伊与太は何事につけ、おっとりしていた。 「不破の旦那と奥様は|やっとう《ヽヽヽヽ》の腕がある。そんな両親の血を引けば動きがいいのも当たり前さ。わっちは生まれて一年過ぎても、なかなか歩かなかったそうだ。伊与太は一年|経《た》ったら、ちゃんと歩いたから、並《なみ》の赤ん坊だ。わっちは並で結構さ」  伊三次の女房のお文《ぶん》は屈託なく言う。  八月に入り、江戸はめっきり秋らしくなった。久しぶりに早く家に戻った伊三次は、お座敷のないお文と晩飯を囲んだ。むろん、伊与太も一緒だ。伊与太は伊三次が家にいる時は、片時も傍《そば》を離れない。  伊与太は晩飯が終わると、伊三次の膝に抱かれたまま指をしゃぶり出した。眠気が差した時の伊与太の癖だった。 「|とろい《ヽヽヽ》のはお前《め》ェ譲りか」  伊三次は憎まれ口を利《き》いた。お文は|きゅっ《ヽヽヽ》と伊三次を睨み、「指しゃぶりはお前さんの方だろう。炭《すみ》町の義姉《ねえ》さんが言っていた」と口を返した。京橋近くの炭町には伊三次の姉が住んでいる。伊与太を可愛がり、時々、顔を見に訪れる。 「餓鬼《がき》ってのは、悪いところばかり親に似るもんだな」  伊三次は苦笑混じりに言って、伊与太を眺めた。父親の膝に抱かれ、伊与太は安心しきった表情だ。伊三次が家に帰ると茶の間の障子を開けて、|にッ《ヽヽ》と笑う。その顔を見ると一日の疲れも吹っ飛ぶというものだった。  伊三次は特に子供好きという方ではなかったのだが、伊与太が生まれて考えは変わった。  我が子はしみじみ可愛いと思う。可愛いからこそ、同じ年頃の子供が川にはまって溺れ死んだり、野良犬に咬《か》まれたりという話を聞くと胸が塞《ふさ》がった。親になるのは嬉しい反面、悩みの種も増えることだと知った。 「お梶《かじ》さんも九兵衛《くへえ》も手が掛からなくていい子だと伊与太を褒《ほ》めるよ。それに比べて不破の旦那のお嬢さんは、ちょいと大変だよ」  お文は伊三次に抱かれている伊与太を見つめてそう言った。  九兵衛は伊三次の弟子で、お梶はその母親だった。二人は近くの裏店《うらだな》に住んでいる。お文にお座敷が掛かると、お梶は伊三次が戻るまで伊与太の面倒を見てくれていた。 「茜お嬢さんは確かに利かん気だが、お前ェから見て、それほど大変か?」 「ああ」  お文は伊三次から伊与太を抱き取り、寝間へ連れて行った。伊与太はすぐに眠ったらしい。 「この間、作蔵《さくぞう》さんがうちへ来たんだよ」  お文は茶の間に戻ると、鉄瓶の湯で茶を淹《い》れた。それから草団子がのった皿を戸棚から出し、伊三次の前に置いた。伊三次は下戸《げこ》で、代わりに甘いものを好む。作蔵は不破家で下男をしている男だった。  茜を背負った作蔵が伊三次の家を訪れたのは午前中で、その時、伊三次はすでに仕事に出ていた。  作蔵は茜を連れて散歩に出たものの、屋敷に帰ろうとすると茜はぐずった。作蔵はそのまま日本橋に向かって歩き、佐内《さない》町まで来たところで、ふと思いついて伊三次の家にやって来たらしい。  伊与太は近所の者から貰った風車に可愛い唇を尖《とが》らせて風を送り、くるくる回して遊んでいた。  お文は作蔵を茶の間に招《しよう》じ入れ、茶の用意を始めた。茜は座敷に下ろされると、つかつかと伊与太に近づき、いきなり風車を奪い取った。伊与太は一瞬、何が起きたかわからない表情でポカンとしていたという。周りには伊与太の遊びを阻《はば》む者など今までいなかったからだ。  だが、茜が風車に息を吹きかけるのを見て、伊与太はそれが自分の物だという意識を取り戻したらしい。つと手を伸ばした。  その途端、茜は派手に伊与太の頬を張った。 「これ、お嬢さん、何んてことするんだ!」  作蔵が慌てて茜を制したが、伊与太は頬の痛みと風車を横取りされたために盛大な泣き声を上げた。  お文は伊与太を抱き寄せ、「風車はおっ母さんが買ってやるから、あれは茜お嬢さんにお上げ」と宥《なだ》めた。 「お文さん、申し訳ねェ。伊与太坊に別なのを買ってやっておくんなさい」  作蔵はそう言って懐《ふところ》から巾着を取り出した。 「作蔵さん、そんなことしないで。今まで伊与太も呑気《のんき》に暮らしていたから、競争相手ができたのはいいことだよ。これで伊与太も、ぼやぼやしていられないと気づいただろう」  お文は鷹揚《おうよう》に言った。 「あいすみやせん。奥様もおたつさんもお嬢さんには、ほとほと手を焼いているんでさァ。それに比べりゃ、伊与太坊はおとなしくて羨《うらや》ましいというものだ」  作蔵はお文に抱かれている伊与太を見ながらそう言った。 「さぞ、勇ましい娘さんにおなりだろうね。作蔵さん、溝《どぶ》に落ちたりしないように気をつけてやっとくれ」  お文は苦笑混じりに作蔵に言った。小半刻《こはんとき》(約三十分)ほどすると茜は風車に飽きたようで放り出した。伊与太はすかさず取りに行くも、茜に「めッ」と叱られた。また伊与太は泣く。  お文が代わりのおもちゃを出してやると、茜は機嫌よく遊び出すが、やはり伊与太が手を出すと怒った。その繰り返しだったという。仕舞いには茜と視線が合っただけで伊与太は泣き出して、宥めるのに苦労したらしい。 「父《と》っつぁんも年だ。お嬢さんの子守りはこたえるだろう」  伊三次は作蔵のことを親しみを込め、昔から父っつぁんと呼んでいた。 「還暦を過ぎたからねえ。そろそろお屋敷を退《の》いて身内の所に戻りたいようなことも言っていたよ」 「身内といっても、父っつぁんには女房も子供もいねェから、帰ったところで迷惑顔をされるんじゃねェか」  伊三次がそう言うと、お文はつかの間、黙った。 「そうじゃねェのけェ?」  伊三次は草団子を茶で飲み下すと、お文に怪訝《けげん》な眼を向けた。 「娘がいるのを知らなかったのかえ」 「娘?」 「ああ。吉原の大見世《おおみせ》にいたそうだ。お職《しよく》を張っていたほどの美人らしい。今は本所にいる。作蔵さんに、そろそろそっちで暮らさないかと再三、言ってくるらしい。だが作蔵さんは娘を廓《くるわ》で働かせていた負い目があって、とてもその気にはなれなかった。この頃になって、ようやく最期だけは娘に看《み》取られて死にたいと思うようになったそうだ。まだ、不破の旦那には話していないことだが」  そんなことは知らなかった。作蔵はずっと独り身を通していた男とばかり思っていたのだ。 「どうしてまた、娘を吉原なんぞに売ったんだろうな。あの人からは考えられねェ」 「そりゃ、借金でにっちもさっちもいかなかったからだろう。本所の在《ざい》で作蔵さんは百姓をしていたらしい。野分《のわき》で田圃《たんぼ》と畑をやられ、おまけにおかみさんが病《やまい》に倒れて薬料も嵩《かさ》んだ。娘は手前ェから吉原に行くと言ったらしい。それから間もなく、おかみさんは死んだ。作蔵さんはこの際だと思って田圃を手放した。その金で娘を請《う》け出そうとしたが、年季が一、二年早まっただけで、とても足りなかったらしい。妓楼《ぎろう》の主《あるじ》は海千山千で、とても作蔵さんが太刀打ちできるもんじゃなかったのさ。あの人も可哀想な人だ」  お文はため息をついた。可愛い娘を吉原に売らなければならなかった作蔵の胸中はいかばかりであったろう。またしても伊三次の胸は塞がった。 「それで、父っつぁんの娘は本所で所帯を持っているのけェ」 「ああ。青物問屋の旦那に身請《みう》けされたらしい。店は繁昌しているから作蔵さんの面倒ぐらい見られるさ。子供も大きいのが三人いるそうだ。作蔵さんは節句になればおなごの孫には雛飾りを、男の孫には鯉幟《こいのぼり》を用意して届けたと言っていた。茜お嬢さんより、本当は自分の孫の子守りをしたかっただろうね」 「そうだな」 「今まで苦労したから、これからは倖せになって貰いたいよ」  お文はしみじみ言う。 「父っつぁんがいなくなったら奥様もおたつさんも困るな。まだまだ茜お嬢さんには手が掛かる」 「そうなんだよ。この間も奥様が本所へ用足しに出たんで、おたつさんが伴をした。その間、作蔵さんが茜お嬢さんの面倒を見ていたんだよ。あの人がいなくなれば奥様も気軽に出かけられないだろう」 「本所? 奥様は本所に知り合いがいるなんざ、聞いたことはねェが」 「お前さん、覚えているだろ? 二年ほど前に金貸しの勾当《こうとう》が殺された事件を」  勾当は盲人の官位の一つだった。座頭《ざとう》の上になる。 「あ、ああ……」  途端に伊三次は合点《がてん》がいった。  勾当殺しの下手人は、不破の長男の龍之進《りゆうのしん》が通っていた塾の師匠だったのだ。  いや、殺された勾当の第一発見者は龍之進で、龍之進は師匠が捕まれば、その娘の|あぐり《ヽヽヽ》が不幸になると考え、しばらく口を閉ざしていたという経緯《いきさつ》があった。  龍之進は伊三次に諭《さと》され、ようやく真実を父親に告げた。塾の師匠の小泉《こいずみ》翠湖《すいこ》は死罪の沙汰《さた》を受けた。その後、娘のあぐりは女中と一緒に本所の横網《よこあみ》町の裏店でひっそりと暮らしているという。伊三次はそのことを龍之進から聞いた。龍之進があぐりを心配するのは、あぐりの所へ本所|無頼派《ぶらいは》と称する不敵な行為をする集団の一員が通っているためだった。  さらに悪いことには、あぐりがその男、薬師寺次郎衛《やくしじじろうえ》をひそかに慕っている様子があることだった。  伊三次は龍之進の気持ちを考えると切なかった。あぐりは龍之進にとって初恋の娘だからだ。 「その娘は不破の坊ちゃんより二つ三つ年上だから、十六、七にもなっているはずだ。そろそろ輿入《こしい》れしてもいい年頃だ。だが、人殺しの父親を持っていたんじゃ、そうそう縁談は纏《まと》まらない。だから奥様はあれこれと世話を焼いているんだろう」  お文は訳知り顔で続ける。 「それで、父っつぁんは縁談が進んでいるようなことを喋っていたか」  伊三次はお文の話を急《せ》かした。 「浅草の仏壇《ぶつだん》屋の主が女房を亡くして|やもめ《ヽヽヽ》でいるそうだ。年は娘より十五ほど上だが、娘の事情を承知で嫁に迎えてもいいと言ってるらしい」 「………」  あぐりには後添《のちぞ》えの話しかないのだろうかと、伊三次は思う。それも仕方がないと思いながらやり切れない気がした。 「ところがさあ、坊ちゃんがご機嫌|斜《なな》めらしいのさ。どうやら坊ちゃんは、その娘に岡惚《おかぼ》れしているようだ」  お文は苦笑混じりに言う。 「何がおかしい」  伊三次は真顔でお文を睨んだ。 「わっちはただ……」  顔色を変えた伊三次にお文は慌てた。 「お座敷の下世話な噂話と一緒にするな。坊ちゃんは真面目に娘のことを心配しているのよ。いいか、この話には込み入った事情があるのよ。その娘の所へ本所無頼派の一人がちょくちょく顔を出すそうだ。そいつは貧乏旗本の次男坊よ。娘はそいつが無頼派だってことは知らねェ。仏壇屋の話が纏まりゃ、そいつがどう出るか坊ちゃんは案じているんだ」  伊三次は少し声を荒らげた。 「本所無頼派って、世間を騒がせているあの本所無頼派のことかえ」 「本所無頼派がいくつもあってたまるか」 「お前さんは、この先、ひと悶着《もんちやく》あると考えているのかえ」 「ああ」 「そいじゃ、素性が割れているのならしょっ引《ぴ》いたらよさそうなもんだ」 「お武家の取り締まりは町方の役目じゃねェ」 「それじゃ、どうするのさ」 「わからねェ。その旗本の倅《せがれ》の出方次第だ」 「困ったねェ」  お文は言いながら、髷《まげ》の根元を簪《かんざし》の先でがりがりと掻いた。 「あんまり強く掻くな。地肌を傷める」  伊三次は髪結いらしく、その時だけ穏やかに言った。 「季節のせいか、毛が抜けるよ。どうしたらいいのさ」 「毛生え薬でもつけな」 「いけすかない。人が真面目に相談しているのに。でもさ……」  お文は簪を元に戻して思案顔をした。 「何んだ」 「坊ちゃんだって、本当のところ、今でもその娘が好きなんだろ?」 「………」 「お前さんはそんな話をするといやがるが」 「別にいやがっちゃいねェ。所詮、餓鬼の色恋なんざ、時が過ぎれば忘れちまう。麻疹《はしか》みてェなもんだと思っている。まして、その娘が坊ちゃんの女房になれる訳でもなし」 「お前さん、そのこと、坊ちゃんにはっきり言ったのかえ」 「いや……」 「そうかえ。それで安心した。この先も絶対一緒になるのは無理だとか、そんなことは言わないどくれ」 「なぜ」 「あの年頃はさあ、傷つきやすいんだよ。人にあれこれ言われたくないのさ。それは手前ェで納得するしかないのさ。お前さんは黙って坊ちゃんの傍についててやればいい」  お文は吐息をついて応えた。 「やけに坊ちゃんをいたわるじゃねェか」  伊三次はからかうように言った。 「二十歳《はたち》になった坊ちゃん、二十五になった坊ちゃんが早く見たいよ。どれほどの男ぶりになるか」  芸者稼業の長いお文は男を見る眼に長《た》けている。お文はまだ幼さの残る龍之進の顔から、すでに男盛りを迎えた時の表情を予想しているらしい。 「いい男になると思うのけェ」 「ああ。坊ちゃんが道を通るだけで、娘達は黄色い声を上げることだろうよ。そうなったら、女房なんざ、よりどりみどりだ。楽しみだねえ」  お文はうっとりとした声になった。 「そん時、お前ェは幾つになってる」 「………」  言葉に窮したお文に伊三次は朗らかな笑い声を立てた。 「さ、寝るとするか。お前ェの話を聞いていたって始まらねェ」 「いけすかない。女房を粗末にすると罰《ばち》が当たるよ」 「おおこわ」  伊三次は悪戯《いたずら》っぽい顔で首を竦《すく》めると着物を脱ぎ、寝間へ引き上げた。お文は伊三次の着物を衣紋竹《えもんだけ》に吊るし、低い声で「お休み」と言った。蒲団に横になると、伊与太の指しゃぶりの音がちゅうちゅうと聞こえた。      二  上がり框《かまち》にひょいと腰を下ろした恰好《かつこう》で龍之進は俯《うつむ》きがちのあぐりの顔を見ていた。  龍之進は母親の持って行った縁談をあぐりがどのように思っているか気になった。  それで見廻りの合間にそっと横網町のあぐりの住まいを訪れてみたのだ。外では朋輩《ほうばい》の古川|喜六《きろく》が待っていた。外はよい天気だったが、裏店の中は仄《ほの》暗かった。 「気が進まないのでしたら、母上に遠慮は無用です。はっきりお断り下さい。言い難《にく》いのでしたら拙者から母上に申し上げます」  龍之進はあぐりの気持ちを慮《おもんぱか》って言う。 「ご心配掛けて申し訳ありません。小母《おば》様がわたくしを心配して下さるのは、とてもありがたいと思っております。私は下手人を父親に持つ娘ですから、この先、まともな縁談があるとは思っておりません。先《さき》様はわたくしの事情を承知の上とのことですから、|おしか《ヽヽヽ》とも話し合い、お話を進めていただく考えでおります」  あぐりは言葉を選びながらゆっくりと応えた。 「では、承知するのですか」 「はい」 「それがお嬢様のためと、あたしも思いますよ」  女中のおしかは、あぐりの後ろから口を挟《はさ》んだ。 「そうなったら、おしかさんはどうされるのですか」  龍之進はおしかに訊いた。 「ええ、ありがたいことに、あたしも一緒にお店《たな》の方へゆけるのですよ」 「そうですか……」 「龍之介さんは、いえ、龍之進さんはわたくしの縁談に反対ですか」  あぐりは思わぬことを訊《き》いた。 「いえ、反対という訳ではありませんが、母上が無理|強《じ》いをしているのではないかと心配しているだけです」 「そんなことはありませんよ。小母様はお優しい方です」 「それで、このことは薬師寺殿に話されたのですか」  そう訊くと、あぐりは少し狼狽《ろうばい》した様子になり、おしかを振り返った。 「薬師寺様の坊ちゃんには何かとよくしていただきましたが、それはそれでございます」  おしかは差し障りのない言い方をした。 「そうですね。薬師寺殿はいずれ、他家に養子に行く宿命《さだめ》ですから」  言いながら、龍之進はあぐりの表情を窺《うかが》った。あぐりは僅《わず》かに唇を噛み締めた。 「縁談を進めるのであれば、若い男が出入りするのは感心しません。おしかさん、今後、薬師寺殿を家に上げるのは控えた方がよろしいでしょう」  龍之進はきっぱりと言った。 「そ、そうですね。妙な噂が立っては困りますから」  おしかは慌てて応える。 「次郎衛様にどうやってお断りするの? もう来ないでと申し上げるの? それはずい分、失礼ではありませんか」  あぐりは詰《なじ》るような口調でおしかに言う。それは龍之進に対しても言っているように聞こえた。 「縁談があると伝えたら、向こうは納得するでしょう。つまらない言い訳はしない方がよろしいですよ」  龍之進はおしかが応える前に言った。あぐりは大きく眼を見開いた。 「龍之進さんは変わりましたね。お務めのせいでしょうか。とても厳しい言い方をなさる。まるでわたくしは吟味《ぎんみ》を受けているようで怖くなります」 「………」  あぐりが自分に対してよい感情を抱いていないと察すると龍之進の胸はほろ苦く痛んだ。 「申し訳ありません」  龍之進は低い声で謝った。 「父が下手人だったからといって、わたくしまでそのような眼で見られるのは心外です。父は父、わたくしはわたくしです」 「おっしゃる通りです。拙者はあぐりさんに倖せになってほしいだけです。それ以外の考えはありません。そこは誤解しないでいただきたい」  龍之進は立ち上がり、頭を下げて暇乞《いとまご》いをした。あぐりはとうとう、「またいらして下さい」とは言わなかった。 「話は済んだのですか」  外に出ると喜六が駆け寄り、そっと訊いた。 「はい……」 「次郎衛のことは?」 「縁談のある家に若い男を出入りさせるなと言いましたが、あぐりさんは立腹された様子でした」 「困りましたねえ。その様子では次郎衛にはっきりと言えるでしょうか。仮に言ったとしても、あの次郎衛が素直に引き下がるかどうか」  喜六は弱った顔をした。 「次郎衛は何を考えているのでしょうね」  龍之進は喜六の顔を見上げながら訊く。 「わかりません」  喜六はあっさりと応えた。喜六は一見、軟弱そうな若者だが剣の腕に優れていた。流儀の違いもあるが、喜六と竹刀《しない》を交えた時、龍之進は、ひどくやり難かった。三本の内、二本は喜六に取られた。意気消沈した龍之進に、「まあ、わたしは龍之進さんより年上ですから完敗する訳にはゆきません」と喜六は意地を見せた。龍之進は得意の小手で何本か決めたが、それも喜六が加減したふうが感じられた。まだまだ修業が足りないと龍之進は改めて肝《きも》に銘《めい》じたものである。 「この頃、無頼派は鳴りを鎮《しず》めているようにも感じられるのですが……」  龍之進は本所無頼派が目立った動きをしていないことが気になっていた。以前なら月に二度は、あちこちで騒ぎを起こしていたものだ。それが八月になってからは、ぴたりと動きがなかった。 「西尾さんがちょいと気になることを言っていました」  喜六は、ふと思い出したように言った。二人は回向院《えこういん》前の広場から両国橋へ向けて歩みを進めていた。西尾|左内《さない》は龍之進や喜六と同じく見習い組の一人だった。 「何んて?」 「長倉|駒之介《こまのすけ》に縁談が持ち上がっているとのことです。相手は幕府の老中の娘で、駒之介は娘の家の養子に迎えられるそうです」  長倉駒之介も本所無頼派の一員だった。 「すると、駒之介は無頼派を脱退するということですか」 「そういうことになりますね。西尾さんは駒之介が脱退したら無頼派も相当に苦しくなるだろうと話しておりました」 「金繰《かねぐ》りですね」  龍之進が訳知り顔で言うと、喜六は大きく肯《うなず》いた。 「駒之介の家は三千石の旗本です。今まで無頼派を何かと援助していたことは想像がつきます。しかし、駒之介が脱退するとなると、これまでのようには行かないでしょう」 「では、無頼派は解散するのでしょうか」 「それも考えられますね。そろそろ潮時のような気もしますから」 「本当は次郎衛に縁談が持ち上がれば、一番、話は早いのですが」  それは龍之進の希望的な思いだった。喜六は苦笑して、「そうですね」と相槌《あいづち》を打った。 「次郎衛があぐりさんの縁談に横車を押さないかと心配です」 「龍之進さんは、あぐりさんがよそへ嫁ぐことには平気なのですか」  思わぬことを言った喜六を龍之進はまじまじと見た。以前は不破さんと呼ばれていたが、この頃は龍之進さんと名前で呼ばれるようになった。親しくなった証拠だ。 「いや、これはつまらないことを申し上げました。忘れて下さい」  喜六は慌てて取り繕《つくろ》った。 「いえ……」  さり気なく応えたが龍之進の胸は揺れていた。もしも自分が二十歳だったら、いや、せめて十八になっていたら、あぐりを妻に迎えることは考えたかも知れない。だが、今の龍之進は見習い同心に出たばかりの、ほんの十四歳の若造である。どうすることもできなかった。 「龍之進さん」  突然、喜六は少し昂《たか》ぶった声を上げ、龍之進の紋付羽織の袖を引いた。そのまま、床見世《とこみせ》の陰に連れて行かれた。ちょうど両国橋の袂《たもと》に差し掛かった時だった。 「次郎衛がいます」  喜六はひそめた声で言った。水茶屋の一軒に次郎衛が四十がらみの男と話をしていた。  相手の男は丈の長い半纏《はんてん》をじょろりと引っ掛け、目つきもよくない。愛想笑いを貼りつけて盛んに次郎衛に話し掛けていた。 「誰でしょう」  龍之進はそっと訊く。 「この近所で商いをしている者でしょうか。水茶屋か出合《であい》茶屋の主のようにも思えますが」 「何か魂胆がありそうですね」  そう言うと、喜六は黙った。だが、しばらくしてから、「無頼派はまだ解散しませんね。そんな気がします」と応えた。  次郎衛は男と視線を合わせない。往来に眼を向けながら話を聞いている。時々、肯くだけだった。  やがて次郎衛は立ち上がり、そのまま広小路を大股に横切って立ち去った。男はしばらく次郎衛の後ろ姿を見送っていたが、自分も立ち上がり、茶代を払うと両国橋に向かって歩き出した。 「後をつけますか? それとも水茶屋で男の素性を訊《たず》ねますか」  喜六は早口に龍之進に訊く。 「後をつけましょう」  間髪を容《い》れず龍之進は応えた。  男は比較的足早に前を進んで行く。二人は男を見失わないように、だが気づかれないように慎重に足を早めた。  男は両国橋を渡り終えると、西両国広小路を抜け、浅草御門前から馬喰《ばくろ》町の通りに入った。それからさらに二町ほど進み、辻《つじ》の所で右に折れた。折れてすぐ、間口二間の二階家に入った。  その土間口の油障子には丸に十の字の紋所と、「いちふく」という屋号が書き殴ってあった。 「ここは?」  龍之進は喜六に訊いた。商売をしているようだが、何んの商売か見当がつかなかった。 「口入《くちい》れ屋(周旋業)です。あまりまともな店ではありません」  喜六は不愉快そうに応えた。 「次郎衛は口入れ屋と何んの話をしていたのでしょうか。まさか奉公先を探している訳ではないでしょう」  龍之進は畳み掛けて訊く。 「仲間の仕事を頼んだのかも知れません」 「だけど、無頼派の中で武家でない者は刀|鍛冶《かじ》と骨接《ほねつ》ぎの弟子ということがわかったではありませんか。二人の仕事はどちらも年季のいるものです。いまさら、それをやめて、新たに仕事の口を探すとは思えませんが」  龍之進は解《げ》せない表情で言った。当初、本所無頼派の顔ぶれは武家の者しかわかっていなかったが、その後調べを進め、本所二ツ目に住む刀鍛冶の貞吉《さだきち》と米沢町の骨接ぎ、直弥《なおや》が仲間であることがわかった。貞吉と直弥はともに十七歳だった。  龍之進の言葉に喜六は首を傾《かし》げた。喜六も次郎衛の意図がわからない様子だった。だが、「次郎衛の張り込みをしても、奴は滅多に|ぼろ《ヽヽ》を出しませんから、こっちを少し探りますか。その内に何か見えてくるかも知れません」と言った。 「そうですね。駒之介が脱退するとなれば、その穴を埋めなければなりません。でもねえ」  龍之進は懐手《ふところで》をして思案する。次郎衛が口入れ屋を介して仲間を募《つの》るとも思えなかった。 「奉行所に戻って、皆んなの意見を仰《あお》ぎましょう。ここで考えても埒《らち》は明きません」  喜六は龍之進にそう言った。 「はい」  龍之進は、いちふくをもう一度振り返ってから踵《きびす》を返した。      三  見習い組は毎日、その日の行動を日誌に書いて指導役の片岡監物《かたおかけんもつ》に提出する決まりになっていた。一月に奉行所に初出仕してから、すでに半年が過ぎた。日誌も半分以上が文字で埋まっている。  監物は見習い組の日誌に丁寧に目を通し、自らの所見を朱《しゆ》で入れた。労をねぎらう言葉と励ます言葉がその大半である。  だが、最近は本所無頼派に入れ込み過ぎるという苦言を呈するようにもなった。 「よいか、諸君は江戸の治安を守るために、お奉行より見習いを仰せつかったのである。徒《いたずら》に本所無頼派ばかりを追うことは時間の無駄とも心得よ。少し様子を見た方がよい」 「しかし、片岡さん。せっかく無頼派の面々が知れたのです。ここはもう少し突っ込んで、我々に探索させて下さい」  緑川《みどりかわ》鉈五郎《なたごろう》はすぐに反発した。普段は鉈五郎の意見に同調できないことの多い龍之進も、その時ばかりは鉈五郎と同じ気持ちだった。 「それはよっく、わかっておる。したが、諸君は、先にしなければならないことがある。この半年、小伝馬《こでんま》町の牢《ろう》屋敷、小石川《こいしかわ》養生所、本所・深川見廻り、人足寄せ場、猿屋《さるや》町会所、風烈《ふうれつ》見廻り、町火消し人足改めと、数々の見学をしてきた。日誌を見よ。それは諸君らの努力の証《あかし》であるぞ。この先、見学した場所に何んらかの問題が起きた時、諸君はただちに日誌を読み返すだろう。そこには、必ずや疑問の糸口が隠されているはずだ。言わば日誌は諸君の財産である。しかるに、二言目には本所無頼派のことだ。無頼派が湯屋に入った、無頼派が水茶屋で草団子を何皿喰うた……西尾、特におぬしがひどい。無頼派が湯屋に行き、草団子を喰うたのが、それほどの事件か」  左内は返事をせずに俯いた。 「いい加減にせよ」  監物は見習い組に厳しい声で言った。 「少々、きついことを申した。許せ。さて、明日からの見学は悪名高き場所である。諸君は真面目第一に考えて、見学していただきたい」  監物がそう言うと、橋口|譲之進《じようのしん》は即座に、「吉原だ」と張り切った声を上げた。それと同時に他の者も「おお!」と感歎《かんたん》の声になった。 「だから、はしゃぐなと言うておろうが」  監物はくさくさした表情で言う。 「吉原はこれまでと同じように何組かに分かれて見学するのですか」  龍之進は渋い表情の監物に訊いた。吉原と聞いて、龍之進の気持ちも穏やかでなかった。そこは江戸随一の歓楽街。男なら誰しも気持ちをそそられる場所だった。  龍之進も年少ながら男の|はしくれ《ヽヽヽヽ》である。吉原には大いに気を惹《ひ》かれていた。 「いや、この度は見習い組の全員で見学する所存。拙者は引率を仰せつかった。吉原は拙者も奉行所に出仕《しゆつし》したばかりの時に一度、訪れたきりだ」 「それでは、片岡さんは今まで吉原で遊んだことはないのですか」  春日多聞《かすがたもん》は意外そうに言った。 「当たり前だ。奉行所の役人が廓《くるわ》へ行くなど、もっての外《ほか》である。男なら誰でも一度ぐらい吉原へ行くべきと考えるのが、そもそもの間違いだ。江戸の男達でも、吉原へ足を踏み入れないまま一生を終えるのがおおかたなのだ。よいか、吉原で遊びたいなどと考えてはならぬ。妻を娶《めと》るまで身を堅く保て。それが妻に対する礼儀であるぞ」  監物は滔々《とうとう》と語った。橋口譲之進が小馬鹿にしたように笑った。 「何がおかしい」  監物は、むっとして譲之進を睨んだ。 「真面目にそんなことを考えるのは片岡さんぐらいですよ。拙者の父上が懇意にしている料理茶屋の主が言っておりました。質《たち》の悪い客は奉行所の役人と学問の師匠だそうです。この北町奉行所でも女遊びで問題になった役人は、一人や二人ではありません」  譲之進がそう言うと監物は言葉に窮した。  やるせないため息をつく。 「橋口さん、だから片岡さんは、そうならないように我らに訓戒を垂れたのではありませんか」  龍之進は監物に助け舟を出した。 「いかさまな」  譲之進は言い過ぎたと感じたのか、素直に応えた。 「ともかく、真面目に対処することだ。白い歯を見せてにやにや笑ったり、きょろきょろ、落ち着きのない目つきをすることはならぬ」  監物は安心したように、また釘を刺した。  翌日、見習い組の一行は舟で山谷堀《さんやぼり》まで着け、そこから徒歩で吉原へ向かった。  午前中のことでもあり、大門《おおもん》の中は閑散としていた。物売りが仲《なか》ノ町《ちよう》の通りを触《ふ》れ廻り、軒を連ねる大見世、小見世も女中や下男が掃除に余念がなかった。その風景は商家の朝のものと何んら変わりがなかった。  華やかな景色を想像していた見習い組は少し気落ちした。  吉原は元和《げんな》三年(一六一七)に在来の傾城《けいせい》町を一ケ所に集めたのが始まりである。そこは葦《よし》の繁る土地であったことから葦原遊廓と呼ばれ、数年後に吉原に改められた。  当初は日本橋の東にあったが、明暦《めいれき》三年(一六五七)に江戸は大火に見舞われ、吉原も全焼した。それから浅草の日本|堤《づつみ》に近い浅草田圃の中に移転したという。幕府公認の遊廓で、大見世には江戸詰めの諸大名や通人《つうじん》が通っていた。  吉原には様々な決まりごとがあり、大門前の衣紋坂《えもんざか》に立てられている高札《こうさつ》には、その決まりごとが謳《うた》ってあった。  乗り物は緊急の医者以外、大門をくぐってはならない。つまり、どれほど身分が高い者でも目指す妓楼《ぎろう》には徒歩で行かなければならないのだ。吉原では金さえ出せば、誰もが客。龍之進は妙な場所に平等の精神が宿っていると思った。  大門の内側右|袖《そで》に四郎兵衛《しろべえ》会所があり、そこでは吉原全体の事務一切を引き受け、特に女の通行手形を改めて遊女の逃亡を防いでいる。また、何か事件があった時は大門の左袖にある奉行所の門番所へ知らせることになっていた。  門番所は隠密廻《おんみつまわ》りの同心が二人ずつ、昼夜交代で詰めていた。  見習い組が吉原を訪れた時、ちょうど、緑川鉈五郎の父親である緑川|平八郎《へいはちろう》が詰めていた。龍之進は笑顔で挨拶したが、息子の鉈五郎は照れ臭いのか、そっぽを向いた。  門番所は面《めん》番所という呼び方をされていた。  四郎兵衛会所の男達は廓内の便宜を図って貰うために、面番所には何かと気を遣っているふうが感じられた。  見習い組の一行は平八郎の案内で、廓内の見学をした。四方をお歯黒溝《はぐろどぶ》と呼ばれる汚らしい堀で囲まれている吉原は、下手人が潜伏する場所としても奉行所は油断がならなかった。特に、押し込みを働いて大金を手にした下手人は決まって吉原で遊興するという。結局、男は金さえあれば女の色香に酔いたい生きものなのだと龍之進は胸で独りごちた。  湯屋帰りの妓《おんな》が見習い組の横を通り過ぎた時、よい匂いがした。多聞と譲之進は鼻をひくひくさせて、監物から「あさましい」と怒鳴られた。  表通りは引手《ひきて》茶屋が軒を連ねている。脇小路には小見世に挟まれて花屋、魚屋、青物屋、煮売り屋などの店もあった。  お歯黒溝近くには、安く遊べる下級の遊女屋も並んでいた。  平八郎は、「ここは同心の少ない禄《ろく》でも遊べるが、その代わりに鼻欠《はなか》けになるのを覚悟せねばならぬぞ」と冗談混じりに言った。  悪い病をうつされるらしい。なるほど、外で客待ちしている妓達の表情は荒《すさ》んでいた。龍之進は只でもいやだと思った。  裏通りを見学して表通りに通じる小路を歩いていた時、一軒の小見世から男が出て来た。男は見習い組の行列に少し驚いた顔をして道を譲った。  龍之進は男の顔を見て、はっとした。その男は東両国広小路の水茶屋で次郎衛と話をしていた口入れ屋だったからだ。そっと喜六の方を向けば、喜六も目顔で肯いた。  いやな予感がした。口入れ屋の男は何用あって吉原に来たのか。それは次郎衛と繋《つな》がることなのだろうか。  繋がるとしたら……龍之進は突然、あらぬ思いに捉《とら》えられた。  次郎衛があぐりを吉原へ売り飛ばそうとしているのではないか。そう考えると、いても立ってもいられなかった。  監物に聞き込みをしたいと申し出たが、すげなく断られた。勝手な行動はならぬと。  日を改めて吉原に来るしかないのだろうか。しかし、そんな時間は自分にないだろう。だが、口入れ屋のことは気になる。  面番所で中食《ちゆうじき》となったが、龍之進は気になって食欲が進まなかった。中食は豪華な膳が並んでいた。四郎兵衛会所が気を利かせて引手茶屋から料理を取り寄せてくれたのだった。 「龍之進、具合でも悪いのか」  あまり食べない龍之進を心配して平八郎が声を掛けた。 「いえ、さっきすれ違った男のことが気になるものですから」  龍之進は監物の顔色を窺いながら低い声で言った。 「男?」 「馬喰町で、いちふくという口入れ屋をしている男です」 「妓《おんな》の斡旋だろう。そんなことはさして珍しくもない」  平八郎は龍之進をいなすように応えた。 「ですが、その男は先日、薬師寺次郎衛と東両国の広小路で話をしていたのです」 「不破!」  監物が声を荒らげて龍之進を制した。 「まあ、片岡殿、もう少し、話を聞いてやりましょう。鉈五郎、薬師寺次郎衛とは何者だ」  平八郎は龍之進に訊いてもいいのに、その時だけ息子に言った。盛んに箸を動かしていた鉈五郎は、「本所無頼派の首謀格《しゆぼうかく》の男です。無頼派は長倉駒之介が脱退するので、資金繰りに頭を悩ませておるのでござる。何事も金が掛かる世の中ですからな。奴がそのために遊女の斡旋に乗り出すことは考えられないことでもありませぬ」と、応えた。父親に対する物言いとしては冷淡に聞こえた。 「龍之進も、その薬師寺という男が口入れ屋を介して妓を斡旋する魂胆だと考えているのか」  平八郎は龍之進へ向き直った。 「はい」 「妓の心当たりはあるのか」 「はい」 「申してみよ」 「あ、あぐりさんです」 「あぐり?」 「父上、二年前に起きた勾当殺しの下手人の娘でござる」  鉈五郎は血の巡《めぐ》りの悪い平八郎にいらいらした様子で早口に言った。ようやく合点のいった平八郎は低く唸《うな》った。 「ですから、小父《おじ》さん、聞き込みをさせて下さい」  龍之進は切羽詰まった表情で平八郎に縋《すが》った。 「それが本当なら薬師寺次郎衛という男、まだ若いのに相当の悪《わる》だな。しかし、お前のような餓鬼がじたばたしたところでどうしようもない。それはおれに任せろ。お前はあぐりという娘が口車に乗せられぬよう、身辺を警護せよ」 「しかし、緑川殿、不破はまだ見習いの身分。勝手な振る舞いは困りまする」  監物は平八郎に反論した。 「見習いだろうが、奉行所の役人に間違いはござらん。みすみす苦界《くがい》に落とされようとする娘を助けるのに理屈はいらぬ。そうではござらぬか」  平八郎の言葉に監物はそれ以上、応えなかった。龍之進が意地を通すことで監物の機嫌を損《そこ》ねることになったようだ。平八郎が手を貸してくれることで安心はしたが、監物はしばらく自分に対して冷淡になるだろうと考え、龍之進の心は重かった。      四  吉原から奉行所に戻り、日誌を書き、八丁堀の組屋敷へ帰宅した時は、とっぷりと日が暮れていた。吉原ではこれからが|かきいれ《ヽヽヽヽ》時となる。そう思うと皮肉な気がした。どうせなら吉原の夜の顔が見たかった。  家では相変わらず妹の茜が騒いでいた。しかし、龍之進の顔を見ると嬉しそうに擦《す》り寄ってきた。 「父上はまだお戻りではないのですか」  龍之進は茜を抱き上げてから、母親に訊いた。 「今夜は張り込みがあるそうで、遅くなるとおっしゃっておりました。もしかしたら徹夜になるかも知れません」 「そうですか……」  龍之進は少しがっかりした。口入れ屋の男のことで父親とも話をしたかったのだ。 「あぐりさんが縁談を断ってきましたよ」  いなみは吐息をついて言った。 「え? わたしには承知するようなことをおっしゃっておりましたけど」 「気が変わられたのでしょう。せっかくよいお話でしたのに。先様もさぞ、がっかりされることでしょう」  いなみは、まくれた茜の着物を直しながら応えた。 「今日の話ですか」 「ええ。結納の日取りを決めに行くと、そういうことになっていて、わたくしは、どっと疲れました」 「それであぐりさんは、これからどうすると」 「何んでも商家に奉公に上がるということでした。詳しい話はなさいませんでしたが」  商家に奉公? あのあぐりが? いよいよ様子が疑わしい。 「母上、気になることがあります。これからあぐりさんの家に行ってきます」 「説得しても無駄ですよ。あの子は、結構、頑固ですから」 「そうではなくて、断る理由が引っ掛かっているのです」 「明日になされませ。今夜はもう遅いですから」 「明日では手遅れということもあります。後生です。行かせて下さい」 「困りましたねえ。どうでもそうしたいのですか」 「はい」 「それでは作蔵を連れておいでなさい。夜道は危ないですから」 「承知しました」  茜をいなみに預けると、後を追って茜は盛大に泣いた。龍之進は構わず台所へ向かい、作蔵の名を声高に呼んだ。  足早に道を急ぎながら、龍之進は自分の心配していることを作蔵に話した。吉原という言葉に作蔵の表情が大きく動いたが、龍之進は、その理由に頓着《とんちやく》する暇はなかった。  日本橋の舟着場で猪牙《ちよき》舟に乗り込み、本所に着けて貰うことにした。吉原通いには、その猪牙が使われることが多い。細身の舟は水の抵抗をあまり受けず、滑るように走るからだ。その代わり、手間賃は他の舟より高い。  本所へ着き、つんのめるように舟から降りると、舟を待っていたらしい男が傍に立っていた。  作蔵の提灯《ちようちん》がその男の顔を照らし出すと、「父っつぁん」と、聞きなれた声がした。伊三次だった。 「どうしたんで? 坊ちゃんまで」  伊三次は怪訝な眼で二人を見た。 「あぐりさんが吉原に売られるかも知れないのです。そんな疑いが出てきました」  龍之進はひと息に言う。 「誰に売られるとおっしゃるんで?」 「本所無頼派です。それじゃ、急ぎますので」 「待って下せェ。わたしも行きます」  そう言った伊三次に、猪牙の船頭は大袈裟に舌打ちをした。当てにした客に逃げられたからだろう。  横網町のあぐりの住む裏店に辿《たど》り着いた時は五つ(午後八時頃)にもなっていたろうか。  夏の季節なら、まだ陽《ひ》の目も微《かす》かに感じられるというのに、辺りは藍玉《あいだま》を溶かしたような闇に包まれていた。それでも、裏店の油障子を透かして、色の悪い夕焼けのような灯りが外に洩《も》れていた。その灯りが門口《かどぐち》の前の四《よ》ツ手駕籠《でかご》を浮かび上がらせた。こんな所で駕籠|舁《か》きが客待ちしているのかと不審を感じた時、「お嬢様」という、おしかの悲鳴にも似た声を三人は聞いた。  裏店の住人達があぐりの住まいの前で人垣を作っていた。龍之進は人垣を掻き分けて前に出た。  口入れ屋の男に促されて、あぐりが外へ出るところだった。おしかは別れを惜しんであぐりの名を呼んでいたのだ。おしかは袖で顔を覆《おお》って泣いていた。 「おしか、身体に気をつけて暮らすのよ」  あぐりは、そんなおしかを気遣っていた。 「あぐりさん」  龍之進が声を掛けると、あぐりは驚いた顔になった。 「どうして……」  どうして龍之進がそこにいるのかと、あぐりは言いたかったのだろう。まるで悪さを見つけられた子供のような表情だった。 「縁談を断ったそうですね」  龍之進は詰るように言った。 「手前ェは誰だ」  口入れ屋は胡散臭《うさんくさ》い眼で龍之進に訊く。 「拙者は北町奉行所の者である。少々、あぐりさんに話がござる。席を外してくれ」 「何んだとう、こちとら時間がねェんだ。邪魔はしねェで貰いてェ」  口入れ屋は龍之進を子供と見て、臆する様子もなかった。 「あぐりさんをどこへ連れて行くつもりですか」 「そりゃ、これから奉公していただくお屋敷でさァ」 「龍之進さん、ご心配なく。奉公させていただくお屋敷は次郎衛様がよくご存じの所です。この方はわたくしを迎えに来ただけです」  あぐりはあくまでも次郎衛を信じているようだ。それが龍之進にこたえた。 「でも、あぐりさん、あなたがこれから行く場所は吉原ではないのですか。この男は次郎衛と会っておりましたし、吉原でも見掛けました」 「いい加減なことを言うな」  口入れ屋は龍之進の身体を押しのけた。体勢を失い、龍之進はよろめいた。伊三次が慌てて手を貸した。 「あぐりお嬢さん、眼を覚ましておくんなさい。坊ちゃんは心底、お嬢さんのことを心配していなさる。それに嘘はありやせん」  伊三次はあぐりを諭すように言った。 「次郎衛様はほんの一年ほど辛抱すれば、必ず迎えに来て下さると約束しました。わたくしはその言葉を信じたいのです」 「世間を騒がしている本所無頼派が次郎衛の正体なんですぜ。それでも信じるんですかい。あんたは利用されて捨てられるだけだ」 「そんな」  あぐりは驚きで眼をみはった。口入れ屋は業を煮やし、伊三次に殴り掛かった。伊三次はそれをひょいと躱《かわ》し、「ほれ、言わねェこっちゃない。こいつは図星を指されて慌てておりやすぜ」と、からかうように言った。 「やれ、やっちまえ」  裏店の住人達から威勢のよい声が上がった。  どう言い繕おうと、人相風体から口入れ屋がよくない人物であるということを住人達は察しているようだ。口入れ屋の形勢は次第に不利になった。  だが、次の瞬間、あぐりは「次郎衛様!」と叫んだ。振り向くと、門口に次郎衛が立っていた。様子を見に来たらしい。  裏店の住人達は一斉に次郎衛を見た。次郎衛はその視線に僅かにたじろいだ。 「あぐりさんをたぶらかしているのは、こいつだ」  一人が叫ぶと、女房達も、「怖いねえ、あんなに若いのに」とか、「末恐ろしい男だ」と口々に言った。 「次郎衛様、はっきりとおっしゃって下さいまし。皆様はわたくしが吉原へ売られるものと決めつけているのです。おしかも心配しております」  あぐりは次郎衛の傍に行き、甘えた声で言う。次郎衛はそのままあぐりの手を取り、駕籠に乗せようとした。 「よしやがれ!」  作蔵は次郎衛に体当たりを喰らわせた。  かッと頭に血が昇った様子の次郎衛は刀を抜いた。住人達はそれを見て悲鳴を上げ、後ずさった。 「次郎衛、ここまでだ。どう言い繕っても貴様の所業は明白だ」  龍之進は果敢に前に出る。 「あぐりさんは拙者のためなら何んでもするとおっしゃったのだ。拙者が頼んだ訳ではござらん。お屋敷だろうが吉原だろうが、そんなことどっちでもいい。のう、あぐりさん」  ねばっこい声だ。龍之進は背中が粟立《あわだ》った。 「でも、吉原ではございませんわね」  あぐりは呑気に訊く。龍之進はあぐりを張り飛ばしたかった。 「吉原ではいけませんか。あそこは並の奉公をするより高い給金が取れるのですよ」  次郎衛は格別の笑顔をあぐりに向けた。  あぐりは驚くより、呆気に取られた表情だった。おしかが裸足のまま飛び出して来て、あぐりの手を取った。次郎衛はそれを邪険に払う。おしかは地面に尻餅をついた。 「乱暴はやめて下さい」  あぐりは次郎衛を制した。 「おしかさんは勝手に転んだんですよ。何しろ、お年ですから」  次郎衛は悪びれた顔もせずに応えた。刀を持たない手はあぐりの手首を握っていた。手出しをすることが躊躇《ためら》われた。 「口入れ屋、お前ェ、そいつに金は払ったのけェ」  伊三次は口入れ屋の喉元に髷棒《まげぼう》の先を突きつけながら訊いた。 「へ、へい」 「幾らよ」 「そのう……四十両でさァ」 「聞きやしたかい、お嬢さん。そいつは四十両でお前ェさんを売ったんですぜ。縁もゆかりもねェ、まして亭主でもねェ赤の他人に売られるなんざ、間尺《ましやく》に合わねェ話じゃござんせんか」  伊三次の言葉にあぐりは、ようやく事態を納得したらしい。次郎衛の顔をじっと見ている。伊三次は構わず、口入れ屋に訊いた。 「口入れ屋、お嬢さんが証文に判子《はんこ》をついたのけェ」 「いや、それは次郎衛様が」 「そいじゃ、お前ェさんはお嬢さんに内緒で証文を拵《こしら》えた訳だ。そいつァ、ご法度《はつと》に触れることだ。奉行所の調べを受けなきゃならねェな」  伊三次は脅《おど》すように言った。 「何も彼《か》も次郎衛様の指図でしたことだ。おれァ、何も知らねェ」 「往生際が悪いぜ。お前ェが加担していることは最初《はな》っからわかっていると言ったじゃねェか」 「薬師寺次郎衛、貴様もこれまでだ。神妙に致せ!」  龍之進が叫び、あぐりに手を伸ばした。次郎衛はその瞬間、刀を真横に払った。龍之進の手の甲が僅かに触れ、血が滴《したた》った。  作蔵はあぐりを助けようと背後から近づいた。 「父っつぁん、危ねェ!」  伊三次の言葉が弾《はじ》けた。だが、慌てた次郎衛は作蔵の腹に刀を突き入れていた。  作蔵はそのまま崩れ落ちるように地面に倒れた。 「作蔵!」  龍之進は、慌てて作蔵の傍に寄る。 「ささ、あぐりさん、参りましょう」  次郎衛は涼しい顔であぐりを促す。あぐりは恐ろしさに首を左右に振った。 「さあ、こんな所にいても仕方がありませんよ。どうしたのです、拙者が怖いのですか」 「この蛆虫《うじむし》! いい加減にしねェか」  いきなり、次郎衛の後頭部が十手で張られた。次郎衛はその場に蹲《うずくま》った。 「父上!」  龍之進は安心したように叫んだ。不破|友之進《とものしん》が緑川平八郎とともに立っていた。門口の後ろには身拵《みごしら》えした奉行所の中間《ちゆうげん》も控えている。不破は龍之進があぐりの所へ出かけたと聞いて、後を追いかけて来たのだろう。地獄に仏とはこのことだった。  裏店の住人達から拍手が上がり、あろうことか、「八丁堀!」という大向こうの声まで入る。  だが、次郎衛は立ち上がると刀を構えた。あぐりはその隙《すき》に住人達の手を借りて、おしかと作蔵を家の中に入れた。 「町方役人の指図は受けぬ」  次郎衛はあぐりの姿を眼で追いながら言う。 「いかにも。貴様の処置はご公儀にお任せする所存。したが、ここで証拠を固めておかぬとな。後で言い逃《のが》れされても困る」  不破は澱《よど》みなく応えた。たとい、次郎衛がどれほどの悪でも、不破はその上を行く、したたかな同心だった。次郎衛の勝算は薄い。 「それでもまだ手向かうのか」  不破の言葉に緑川も腰に手をやる。次郎衛は観念して刀を収めた。 「連れて行け!」  不破は中間に命じた。それと同時に伊三次は口入れ屋を突き出した。 「いい年して若造の言いなりになってよ。手前ェも業晒《ごうさら》しな野郎だ」  不破は呆れた声で言った。 「へい、すんません」  口入れ屋は殊勝に頭を下げた。中間がその身体に縄を掛けた。 「それでは、これからお目付《めつけ》に連絡するので、おれはひと足早く行くとするわ」  緑川は事務的に言う。 「逃げられるなよ。何しろ、本所無頼派だ」  不破はからかうように言った。 「お前の倅《せがれ》とうちのは八丁堀純情派だとよ」 「たはッ」  不破は噴《ふ》き出すように笑った。しかし、次郎衛と緑川が去ると、途端に作蔵を案じて厳しい表情になった。  龍之進はあぐりに傷の手当てを受けていた。作蔵は蒲団に横になっていた。 「父上、今、医者を呼んでいただきました」  龍之進は座敷に上がって来た不破に言う。作蔵は出血がひどかった。 「作蔵……」  不破は枕許に座って声を掛けた。 「旦那、お嬢さんは無事ですかい」  作蔵は虚《うつ》ろな眼であぐりを探していた。 「ああ、ここにいるぜ」 「わたくしのために怪我をされて申し訳ありません」  あぐりは作蔵に詫びた。 「お嬢さん、しっかりしておくんなさい。吉原になんぞ行ったら、亡くなられたお父っさんが悲しみますぜ。あの人が勾当に借金したのも、切羽詰まって殺しちまったのも、皆んな、お嬢様のためですぜ。仏壇屋よりも次郎衛に靡《なび》きたい気持ちはわかるが、あの男は駄目だ。幾ら尽くしても無駄というものだ。うちの奥様のおっしゃることを聞きなすって、仏壇屋に嫁ぎなせェ。それがあんたのためだ」  作蔵は声を励まして言う。あぐりは殊勝に肯いた。  医者がやって来て、手当てをする間、伊三次はそっと表に出た。龍之進も後に続いた。狭い座敷では医者の邪魔になると考えたのだ。 「坊ちゃん、あぐりさんが無事でよかったですね」 「でも、作蔵が……」 「意識がしっかりしておりやすから、大丈夫ですよ」  裏店の住人達もおおかたは引き上げ、二、三人の男達が立ち話をしているだけだった。  伊三次は男達に「迷惑を掛けやした」と声を掛けた。「なあに」という気さくな返答があった。 「次郎衛は?」  龍之進は気になるのか訊く。 「緑川の旦那が連れて行きやした。お目付に報告するそうです」 「そうですか」  次郎衛が処罰を受ければ、おのずと無頼派も解散する方向に行くような気もするが、本当にそうなるかどうかは、はっきりわからないと龍之進は思う。 「疲れましたね」  龍之進はそこで初めて笑顔になった。 「さいです」  伊三次も笑顔で応えた。だが、次の瞬間、あぐりの悲鳴が聞こえた。伊三次と龍之進はぎょっとして家の中に戻った。  不破は俯いたままだった。 「先生」  伊三次は枕許に座っている総髪の中年の医者に声を掛けた。 「ただ今、お眼を落とされました」  医者は気の毒そうに応えた。  出血もひどかったが、それよりも腹を刺された衝撃で心《しん》ノ臓《ぞう》が先にやられてしまった、と医者は続けた。  龍之進は覚つかない足取りで枕許に近寄った。 「作蔵、嘘だろ?」  眼を閉じた作蔵は眠っているだけのようにも思えた。あぐりはおしかと手を取り合って泣いていた。 「こんなのはいやだよ、作蔵。一緒に八丁堀に帰るんだ。さっきまで一緒だったじゃないか。帰りも一緒だ。提灯を照らしてくれなきゃ、足許が危ないじゃないか。作蔵!」  絞り上げるような声を上げて龍之進は泣いた。 「父っつぁんは自分の娘を吉原に取られている。それをずっと悔いていた。だから、身体を張ってあぐりお嬢さんを庇《かば》ったんだ。父っつぁん、よかったな。娘の仇《あだ》ァ、討てたよな」  伊三次も咽《むせ》びながら言う。心なしか作蔵の顔は微笑んでいるようにも見えた。      五  神無月《かんなづき》のよく晴れた日だった。  伊三次は深川の丁場《ちようば》(得意先)を廻った帰り、本所にある作蔵の娘の家に寄り、線香を上げた。娘の|おはつ《ヽヽヽ》は、とうとう作蔵と一緒に住む機会がなかったことを悔やんでいた。  だが、吉原に売られようとした娘を助けるために作蔵が命を落としたことには深く納得している様子だった。  四十近いおはつは、ろくに化粧をしていなくてもきれいな女だった。さすが吉原でお職を張っていただけのことはあった。  おはつの語る作蔵の思い出話は伊三次を面喰らわせた。怖い人だったと。温厚な作蔵からは想像もできなかった。  朝から晩まで働いて、それでいて年中、貧乏していたと、おはつは泣き笑いの顔で言う。  だが、女のことでおっ母さんを泣かせたことは一度もない、それが娘としては誇りだと、おはつはきっぱりと言った。だから、伊三次さんもおかみさんを泣かせては駄目よ、と釘を刺す。 「あい、わかっておりやす」  伊三次は殊勝に応えた。  作蔵の顔を二度と見られないと思うと寂しさは募る。病で死んだのなら諦めもつくが、あの死に方はつくづくこたえた。仏壇に線香を上げ、掌《て》を合わせることで伊三次の気持ちは僅かに慰められる。月命日には、これからも欠かさずおはつの所を訪れようと心に決めていた。  おはつの家を出ると、伊三次は陽気もいいことから、歩いて佐内町に戻るつもりだった。  両国橋を渡っている途中、伊三次は欄干に凭《もた》れて水の流れを見つめている龍之進に気づいた。  龍之進は一人だった。手の甲の傷は癒え、包帯も取れている。 「坊ちゃん」  伊三次はそっと声を掛けた。振り返った龍之進の眼が赤くなっていた。 「今、父っつぁんに線香を上げて来たところでさァ」  伊三次は聞かれてもいないのに言う。 「そうですか。わたしも気になっていたのですが、なかなか時間がなくて」 「それは仕方がありやせんよ。坊ちゃんにはお務めがあるんですから。こんなところでどうしやした」 「本日はあぐりさんの祝言です」  そうだった。あぐりはあれから仏壇屋へ嫁ぐことを決心したのだった。 「あ、ああ。そうでしたね。坊ちゃんも祝言に呼ばれてるんじゃありやせんか。ぐずぐずしていると時刻に遅れますぜ」 「いえ、わたしは失礼するつもりです。奉行所には休みの届けを出しておりますが、気が進みませんので」 「さいですか……」 「でも、ここからあぐりさんが舟で浅草へ行くのを見送りました」 「………」 「雪のように真っ白な花嫁衣裳で、とてもきれいでした」 「お嬢さんは坊ちゃんに気がつきやしたかい」 「いえ」 「………」 「わたしは舟になりたいと思いました」  龍之進は伊三次から視線を逸《そ》らし、ぽつりと言った。 「舟に?」  龍之進が何を言いたいのか伊三次にはわからなかった。欄干の向こうに永代橋が見える。通り過ぎる人々が蟻《あり》のように動いていた。 「あぐりさんを乗せる舟になりたかった。そうしたら、浅草まで送ってやれたから。馬鹿でしょう? そんなことを考えるなんて」 「いいですねえ、そいつは。惚れた女を乗せる舟になりてェなんざ、坊ちゃんでなけりゃ、言えねェ台詞《せりふ》だ」  伊三次は笑顔で応えた。 「誰にも言わないで下さい。言えば笑われます」  龍之進は伊三次に約束させた。  次郎衛に咎《とが》めは及ばなかった。長倉駒之介の父親、長倉|刑部《ぎようぶ》が目付にひそかに手を回したのだ。次郎衛のことが公になれば息子にも累《るい》が及ぶことを案じたのだろう。  龍之進と本所無頼派の闘いはまだまだ続くことになりそうだ。しっかりしておくんなさい、という言葉を伊三次は呑み込んだ。今は、今だけは、たっぷりとあぐりの思い出に浸《ひた》らせてやりたかった。 「無理に忘れなくてもいいんですよ。一生忘れられねェのなら、それでも構わねェと思いやす」 「………」 「どうです、うちへ寄りやせんか。飯でも一緒に喰いやしょう」  伊三次は龍之進の気を引くように誘った。 「いいんですか。でも、お文さんにお座敷があったら?」 「そん時は外に出ましょう」  そう言った伊三次に、龍之進はようやく笑った。少し大人の顔になったと、伊三次は思う。  二十歳の龍之進、二十五の龍之進。お文の言葉が思い出された。伊三次もそれが楽しみになった。  西の空は茜色に染まっていた。歩き出した龍之進の顔にも夕陽が射《さ》す。未来は途方もなく遠い時間ではなく、いずれ確実に訪れる時間なのだと、伊三次は改めて思うのだった。 [#改ページ]  文庫のためのあとがき [#地付き]宇江佐真理  髪結い伊三次のシリーズはデビューした時から書かせていただいているものである。  シリーズを持つことは小説家として大いに強みであると編集者諸氏は持ち上げるが、それは今だから言えることであって、当初は同じ主人公で延々と小説を書くつもりなどなかった。第一、私は飽きっぽい人間である。  将来を展望する余裕もなく、ただ雑誌に掲載されたい、単行本を出したいと一途に思っていただけだ。単行本を出すためには担当編集者の後押しと出版部の部長の決断を要することなども私は深く考えなかった。その意味で私は業界のことを知らない田舎者だった。  とにもかくにも私は伊三次を書き続けることができた。とても幸運だったと改めて思う。  その一方で、できの悪い作品も多々あって、読者にも雑誌の編集部にもご迷惑をお掛けしている。この場をお借りして深くお詫びする次第である。闇雲に走り続けて来た道を振り返ると、さて、私にとって主人公の伊三次とはいかなる存在なのかと改めて思うようになった。  連れ合いがモデルではないかと詮索する方もいらっしゃるが、決してそうではない。いや、断じて違う。だいたい、連れ合いは大酒飲みだが、伊三次は下戸《げこ》である。考えてみたら、私の父親も元彼の誰それも酒飲みで、およそ酒の飲めない男とは縁がなかった。酔っ払いの介抱にうんざりして、下戸の男を主人公に配したふしもある。だが、昔の私の気持ちは、とうに忘れている。  シリーズの最初は私もそれなりに若かったせいもあり、伊三次を恋愛の対象とは言わないまでも、好ましい男性として扱った。それが時間の経過とともに弟のような存在になり、さらに息子のような存在へと変わっていった。  それでは、今は母親の眼で見ているのかと問われたら、それも少し違うような気がする。  母親なら廻り髪結いの傍《かたわ》ら、奉行所の同心の手先として使われることをよしとはしないだろうし(危険が伴うので)、深川芸者だったお文と所帯を持つことにも賛成できなかったはずだ。  たとえて言うなら、伊三次の父親か母親の従姉妹《いとこ》に当たる女性が伊三次を見つめる感じになるだろうか。  伊三次の両親が相次いで亡くなった時は、残された伊三次が不憫《ふびん》で涙の一つもこぼしただろうし、それから伊三次が姉のお園《その》に引き取られた時は、ほっと安堵しただろう。だが、お園の連れ合いから邪険にされていると聞けば、可哀想にと胸を痛めたはずだ。けれど、自分も|かつかつ《ヽヽヽヽ》の暮らしをしているので、伊三次に「うちへおいでよ」とは、とても言えない。お園の連れ合いに叱られ、泣いたような顔をして土手を歩いている伊三次を見掛け「伊三ちゃん、どうしたえ。また義兄《にい》さんに叱られたのかえ。世の中には二親《ふたおや》が死んで、面倒を見てくれる人もいない子供は|ごまん《ヽヽヽ》といるのだよ。それに比べたら伊三ちゃんは、まだ倖せだ。ここは辛抱おしよ」と慰め、焼き芋のひとつも与えるのが精一杯の中年の女だ。  伊三次はつかの間、顔だけ知っていた親戚の小母さんの好意に笑顔になるが、普段は小母さんのことなど気にも留めていない。道で出くわした時だけ、ああ小母さんだと思い出すだけだ。太り|じし《ヽヽ》で、器量もよくない小母さんだけど、伊三次に向ける眼は温かい。  私は自分をそのような存在として小説の中に参加させているつもりになっている。  伊三次が佐内町《さないちよう》に家を構えた時も伊与太が生まれた時も、もちろんお祝いは届けたはずだ。恐縮する伊三次とお文に小母さんは「なになに、ほんの気持ちだから」と笑って応える。  小母さんの身内に不幸があった時は香典を包むぐらいの気持ちは伊三次も持っている。  つい半年前、小母さんの妹が急死した時も伊三次は駆けつけて小母さんを慰めた。小母さんの妹は桜餅や牡丹餅を作るのが上手で、春秋の彼岸の時には伊三次の家にわざわざ届けてくれたものだ。 「人が死ぬのは年の順番じゃねェんですね」  しみじみ言った伊三次の言葉に小母さんはさらに泣けるのだった。  不破友之進の息子の龍之進はめでたく元服を迎え、父親と同じ町方役人の道を歩むようになった。子供だと思っていた龍之進がいつの間にか……他の部署にいて、この度、また私の担当に復帰した編集者は感慨深い口調で言った。  これから伊三次はどのように年を取るのか、龍之進はどのような若者に成長するのか。  親戚の小母さんは眩《まぶ》しいような眼をして見つめている。 「君を乗せる舟」はその意味で転機の小説と言えるかも知れない。  平成十九年、十月。五十八歳の誕生日に。  単行本 二〇〇五年三月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成二十年一月十日刊